Ash.



 ちらちらと舞う灰が、灰色の湖面にいくつかたどり着いたころ、先生は私を振り返らずに、うつむいた。
「あの娘のどこがだめだったのかね」
「どこもいけなくはありませんでした」
「時期がだめだったのだろうか」
「時期は遅くも早くもありませんでした」
「めぐり合わせがだめだったのだろうか」
「いいえ、そうでもありません」
 会話は途切れた。
 しばらく灰が降って、先生は空を見た。
「私がいたからだめだったのだろうか」
 沈黙した。
 先生は湖面に視線を注ぎ、そっと横目で私を見た。
「灰がひどくなってきた。君はもう帰りなさい」
 確かに、先生の言うとおり、降り注ぐ灰はひどくなってきていた。先生の白髪交じりの髪にも、車椅子のハンドルにも、灰がうっすらと積もり始めている。
 私は、車椅子から、手を離した。
 先生は、ストッパーを外した。痩せた手で、ハンドリムをしっかりと握る。
「先生」
 私はたまらず、声をかけた。
 これは、私が今まで先生を呼んだどのときよりも、決定的で完全な、そしてすべてが台無しになるバグだった。
 先生は、ハンドリムを握ったまま、前かがみになって頭を振った。
「それはいけない。どうしても、いけない。何故だ。何故こんな結果になった。君は、何を起点にしたのだね。一体、どこを基準にした……」
 搾り出すような声が、降り注ぐ灰にまぎれて聞こえる。声は、灰に凍えて次第に小さくなる。
「……どうして、私は起点を間違えたのか……」
 先生は車椅子の上でうずくまった。
 私は、灰に目を細めながら、ただ、先生を見ていた。

 彼女を泣かせたその夜、宇宙から灰が降った。

 先生は震える手で、ハンドリムを握りなおした。
 その確かな炎で、この降り注ぐ灰を止めようとする──

 It is because innocent she thought that she was sad that you hated snow.
 Therefore, you hoped it stopped snowing.

 私の傲慢な悲しみと、先生の深い悲しみが、起点を誤らせた。
 だから、この灰を止めるには。このエラーを直すには。

 ──You will be going to jump down from here.

 ああ、エラーログが止まらない。どうあれば、この警告音は止まる?
「先生、あなたが」
 降り注ぐエラーメッセージにまぎれるのが怖かった。許せなかった。いたたまれなかった。
 My prof.,I'm here. もうどうしようもない、どうすることもできない。
「先生、私にとってあなたは、最後のオペレーティングシステムだ。あなたが私の世界だ。もう変えられない。他のシステムに移行なんてできるはずがない!」
 だから。
 私は手を伸ばした。車椅子のグリップを、爪が突き刺さるほどに強く掴む。車椅子は、わずかに斜めに傾いて停止した。
 沈黙。静寂。
 灰色に埋め尽くされる中で、私と先生の呼吸だけがした。

 Snow will turn into heavy snow.

 先生は荒い吐息を漏らして、手で顔を覆った。
 私は車椅子にすがりつくように、膝を折った。
「この灰は、まだ止みません。……どんな方法でも、止ませることなんて無理だ。……そうでしょう、先生。あのラジオでも言っていた。しばらく灰は降る──」
 先生は何も言わなかった。私は喘ぐように、ただ続ける。
「でもいずれ灰は止む。きっと止むんです。……止んでほしい……、そうでなければ……」
 その先を遮るように、先生がかすれた声で言う。
「……起点を間違ったのは私だ。私などを世界にしたから、君が方向を見失った。だから、灰が降った」
 君はどこも悪くない、と暗い言葉が続いた。
 私はうつむいて下唇を噛み、ハンドリムを握る先生の左手を握り締めた。息苦しさと浅ましい傲慢さを、噛み締めた唇の合間から吐き出して、先生の年取った手を強く掴み取る。

「それでも、あなたは、私の、世界だ」

 このコードは、端的に言えばI love you。そして、即物的なI need you。
 この合理化を果たした世界の、唯一の欠陥。
 私は、何よりも、あなたを選んでしまう。
 先生は、私の愚かな手を強く握り返した。憤りさえ感じるような、激しい深愛で。









前へ  サイト  次へ


web clap!