それから数日、恭一は、順作と顔を合わせなかった。元々、顔を会わせるようなカリキュラムをとっていなかったのだろう。驚くほどあっさりと、完全に、恭一の前から順作の……あの変人先輩の影は消えた。
 清々した。
 ……本当に、清々した。
 すがすがしい気持ちで一日目、二日目がすぎた。三日目、恭一は自分は清々したんだと自分に言い聞かせるようになった。四日目、最後に会ったあの夕暮れのやりとりを思い出すようになった。五日目以降、何度も思い出す羽目になった。
 清々するどころか、あの言い方はなかったんじゃないかとか、ひどい言い方をしてしまったよな、などと反省する始末……。
 恭一は、深いため息をついた。
 気分が晴れない。なんだかいやな気分だ。別に、あの先輩と仲良くしたいというわけではない。でも、ただ……自分で自分の評価を下げるようなことを言ったのが引っかかっている。自分は、典型的な八方美人だ。あの先輩相手でも、自分の評価を落とすようなことを言ったのは間違いだった。……間違いだったのだ。だから、今こんなに、引っかかって、ため息をついている。それだけだ……。
 恭一は駅前の噴水広場にいた。
 今日の講義は午前で終わりだ。特に用事もないし、昼飯をどこかで食べようかと、ぼんやり考えているところだった。
 ぼんやり昼飯のことを考えていたはずが、なんだか変な方向へ思考が転がっていって、思い出したくないことを思い出してしまったわけだが……。
 ──あの変人のことなんか、思い出したくもない。
 好き勝手にやりたい放題、自分のペースでかきまわしたあげく、こっちのペースまで無遠慮に侵してくる男だ。嫌いだし、かかわり合いになんかなりたくない。
 大体──
 恭一は、忌々しいため息をつき、噴水の縁に腰を下ろした。額から頬、眉間、手で覆ってどういうことだと自問する。
 あのとき。
 ……あのとき、自分は。

「違う違う、絶対違う」

 否定する。あれは。あれは、何かの気の迷い……
 あんな変人を、かわいいだなんて。自分の頭はどうかしてしまったのか……?
 ああ、たぶん、失恋したてだからだ。失恋のショックが、自分を惑わせているに違いない。……というか、そうでないと困る。
 すべては、失恋のせい……。だから、自分は悪くない……。
 不意に、ジャケットのポケットが振動した。恭一は、面倒そうに、ポケットから携帯を取り出した。

「……メール……?」

 怪訝な顔をしたのも、つかの間。
 恭一は思わず立ち上がった。降って湧いた幸運に、頬がゆるむ。
 ガッツポーズをしたいのをこらえて、緊張した指先でメールの返事を出す。
 ああ、神はいる。少なくとも、恋の神はいる。
 これでめでたく、自分はキャンパスライフを謳歌できるのだと、恭一は先ほどまでの苦悩を忘れて喜んだ。

※ ※ ※

 人間とは現金なもので───
 それからの恭一は今までの人生の中で、もっとも心広く過ごした。
 頭の中には、あの変人のことは影も形もなかった。思い悩んでいたことなんか、すっかり完全に忘却の彼方へ押しやって、脳内は平安そのものだった。
 もともと、あんな変人に運命の人だの何だのとつきまとわれたこと事態、夢だったのだ。

「……どうしたの?」

 のぞき込むようにして、ショートボブの彼女が言った。

「何だか、ぼうっとしてたみたい」
「あ、いや、別に。何でもない」

 恭一は肩をすくめて少し笑った。左隣には、小柄でかわいい彼女。くりっとした瞳が印象的だ。しばらく前から、暇さえあれば一緒に出かけたり過ごすことが増えた。
 一つ年下で、同じ大学の同じ学科の子だ。合コンで知り合って、それから紆余曲折はあったが、先日、彼女からメールで交際OKの返事をもらい、めでたくつきあうこととなった。実は、彼女は、恭一が一度玉砕したあの彼女でもあった。彼女は一度断りはしたが、やはり思い直して恭一に連絡をとることにしたのだという。
 つまり──恭一はほんの少しの番狂わせがあったものの、当初の目標を達成したわけである。
 彼女の名前は、小西由利といった。
 今日も今日で、その彼女の講義が終わるまで、恭一は近くの喫茶店で時間をつぶしていた。真面目な彼女は、一日の講義の数が恭一と比べるまでもなく多い。平日待ち合わせをするときは、恭一のほうが待ちぼうけを食らわされることのほうが多いが、その分、会えたときのうれしさは格別と、それはもう恋愛に毒された気の毒な頭で幸せをかみしめていた。
 喫茶店の奥まった席で彼女と向かい合って座りながら、恭一はストローでグラスのアイスコーヒーをかきまわした。学生客の多い喫茶店だが、雰囲気は悪くない。むしろ、じぶんたちと同じような学生がいるほうが、緊張せずにすむ。近頃の恭一の頭の中といえば、あの変人の影がない代わりに、どうすればかわいい彼女にもっと気に入られるだろうかという哀れで己に忠実な欲望でいっぱいだった。
 明日は土曜日で、真面目な彼女は一日フリーだ。遊園地か、映画か、動物園か、とにかくどこかに行って、デートらしきことをしたい。どう切り出せばいいだろうか、と恭一はアイスコーヒーに浮かぶ氷を眺めながら思案していた。

「峰岸君、あの……」

 由利が少し小さな声で言った。遠慮しているのもあるだろうが、もともと声が小さいのだろう。そういうところもかわいいと恭一は心の中でデレデレする。もう救いようのない恋の病だ。病識がないのがさらに怖い。

「どうしたの」

 恭一が話を促すと、彼女は小さくうなずいて話を続けた。ああそんなところも以下略。

「話したいことがあるんだけど……」
「話したいこと?」

 言いにくいことなのだろうか。彼女はためらいがちに、こちらを見た。視線が合うと、さっと下へおろす。

「話したいことって何?」
「……ううん。やっぱり何でもない」

 何でもないと言われても逆に気になる。恭一は彼女の様子に気を配りながら、できるだけ優しく尋ねた。

「遠慮なんかしなくていいよ。何? 俺で聞けることなら、聞くし……」
「いいの。何でもない。あ、……うん、大したことじゃないし。……ごめんね、なんか思わせぶりなこと言っちゃって」
「でも、俺に何か……」
「本当、大したことじゃないから」

 やんわりと、しかしはっきりと追及をこばまれて、恭一は引き下がるしかなかった。
 彼女が自分に話したいことなら、いつかは話してくれるだろう。何せ、まだつきあってそんなに経っていない。何でも話せるようになるまで、彼女は時間がかかるタイプなのかもしれない。
 恭一は自分にそう言い聞かせながら、しつこくこだわっているようなところを見せて彼女に嫌われては大変と、やや無理矢理にではあったが違う話題を切り出した。

「あのさ、明日、一日空いてるんだよね」
「え」
「や、いや、明日、土曜日だし……休みって由……小西さん、言ってなかった?」
「あ、……ああ、うん……」

 突拍子がなさすぎたのかもしれない。
 由利は驚いたらしく、大きな目をさらに大きくしてこちらを見た。
 くじけそうになる自分を叱咤して、恭一は続ける。

「あのさ、だったらどこか出かけない? ちょっと遠出したり。そういえば、三駅向こうに新しく水族館ができたって聞いたから、そこに行ってみてもいいかなって思ってるんだけど……」
「え……」
「あ、なんか用事とか……?」
「用事とかじゃないけど……」

 由利は言いにくそうにあいまいに目をそらした。

「日曜日、朝から用事があるの。だから、土曜日はちょっと遠出は……控えたいかなって……。帰りが遅くなったら、困るし……」
「……そう」
「ご、ごめんなさい。別に行きたくないとかじゃなくて……」
「うん、わかってるよ。仕方ない。また今度にしよう」

 申し訳なさそうにされると、こちらも困る。恭一は努めて明るく笑った。

「じゃあ、駅前においしいアイスの店が出来たから、そこ行かない?」
「う、うん……」

 うなずいてくれるものの、由利の表情はどこか暗い。
 ……そういえば、最近彼女の元気そうな笑顔を見た覚えがない。そもそも、付き合いはじめた当初から、彼女の笑みはぎこちないものだった気がする。
 気がついてから、初めて恭一は不安になった。
 そういえば、どこかへ行こう、デートしようと言うのは決まって自分だ。由利がどこかへ行きたいと意見したことはおろか、会いたいと言ってきたこともメールしてきたこともない。
 ひょっとしたら、由利は早くも別れたくなっているのではないか……。さっき言いかけたことは、もしかしたら。
 恭一の不安を感じ取ったのか、由利がぎこちないながらもこちらを見て笑った。

「土曜日、アイス食べに行こうね。私、バニラの中にクッキーが入ってるのが好き。峰岸君の言ってるお店、休みの日すごい混むんだって」
「そ、そうなんだ。じゃあ混む時間帯ずらして行った方が……」

 笑って返そうとするものの、由利の表情が強ばっているようにしか見えなくて、うまく笑えなかった。
 そもそも、付き合いはじめてからもう数週間にもなるのに、常に彼女の顔色を伺っていたことしか記憶に残ってない……。








サイト 次へ
作品が気に入られましたらクリックしていただけるとうれしいです→