ミルク・キャンディー・イン・コーヒー



 京都の大学のキャンパスで、一通り何の変哲もない恋愛をして、特別どうということもなく、どんつきの河原町に着く前に手前の烏丸で地下鉄に乗り換えておこうか、みたいな安易さで卒業と同時に結婚した。どちらも安易さしかなかったから、他人の結婚生活なんてとても想像できない。きっと、同じ京都でも、端から端まであるように、マスターの結婚生活と自分の結婚生活はきっと違う。でも、どちらの指にもリングがあるのは、京都というつながりにも似ているなと思う。

 カップの中身を一口飲んだ。
 何となく、ミルクの味がするような、しないような。あいまいで、あやふやな。

 それでも、やっぱり、彼の薬指に古いリングがあるうちは、自分もきっとリングを外さないだろう。本当は何もないのに、深い関係になっているような錯覚。相手が八号のリングじゃなくても、成立するのかな、と馬鹿げたことを思って。

「マスターは、ここ長いんですか」
「独り身になってからですよ。あれが生きているうちは、こんな生活は許してくれないでしょうね」

 マスターは丸眼鏡の奥で、笑った。
 自分も、つられて笑った。

「自分だったら許しますけどね。この珈琲を毎朝飲みたい。この飲み方をしてね」

 顔の映りそうなほど磨かれたカウンターに頬杖ついて、彼を見上げる。
 マスターは、今度こそ、声を立てて笑った。レトロなガスランプを装う電灯のあかりが目皺ににじむような、笑い顔だった。
 そればかりか。
 節くれだった水を扱う仕事をしてきた彼の手が、さもおかしそうに薄い唇にあてられるのを見て、しばらくの間、目を閉じた。
 ゆっくりとまばたきしたのは、きっと年甲斐もない。今までの三十余年なんて、惚れた晴れたの前には無力だ。まったく困ったもんだねミルク飴、とカップの側面を指先でこづく。こげ茶の水面が震えた。
 マスターは、そうですねえ、といまだ笑いの残る口元をして、その落ち窪んだ目をこちらに向けた。

「やっぱり若い人は違いますね。私と違って、プロポーズもスマートだ。私なんかは、ひどく緊張しましてね、当時の妻を怒らせてしまって、情けない思いをしましたよ」

 彼は丸眼鏡を取って、レンズを袖口でぬぐった。そうして、視線を手元に落としたまま、彼は変わらぬ調子で言った。

「じゃあ、毎朝飲めるように、あなたの好きな銘柄の飴を用意しましょう。もうずっと前に、すっかり、銘柄は覚えてしまいましたからね。……どうです、一途でしょう」

 思わず彼の顔を見つめる。手元から目を離して、彼が裸眼でこちらを見た。その目は、かすかに笑っていた。
 はは、と自分は頭に手をやって笑う。まいったな。これが年の功か。

「ぶぶ漬けはなしですよ」
「私は関東の人間ですよ、ぶぶ漬けは好きですけれど」

 彼がちょっと澄まして言った。
 それを見て、この人はこんな顔もするのか、と思った。
 そして、それで、やっぱり、この人が好きになってしまったなあ、と思った。

 ……本当に、たまらないね。



 そうして、自分は、もう、背広の内ポケットに、ひとつきりの飴を忍ばせなくてよくなった。








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