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 パッヘルベルのカノンに眉を寄せる。
 電子音の耳障りな音──傷んだ畳の上、掛け布団だけを引き被って寝ていた神山淳司は、半ば無意識に手を伸ばしてアンティーク物の目覚まし時計を叩いた。
 だが、カノンは止まらない。
 うめき声か嘆き声か、よく分からない声を出しながら、あたりを手探りで改める。あった。指先に固いものがあたる。……携帯電話だ。
 よろよろといった体で、神山淳司は身体を起こすと、二つ折りの携帯電話を開いた。半ば無意識に、タイマーを止める。昨日、日曜日、どうしても見たい朝八時から始まる番組を見るためだけにタイマーをセットしていたのを薄ぼんやりと思い出す。
 硬い短髪をかきあげ、眠気に調子が出ないまぶたを無理やりまばたきさせて、茫然自失ともいえる状態で油の浮いた汚い天井を見つめる。
「……もう、朝か……」
 寝起きの潰れた声だ。神山は無精ひげの生えた顎をなでながら、よれよれの開襟シャツの襟元に手を突っ込んで鎖骨のあたりをぼりぼりとかいた。手にとった携帯電話を無造作にその辺に投げ捨て、枕もとに置いていた眼鏡を掛けた。
 あくび。とにかく、眠い……
 無意識に近くにあった灰皿を引き寄せて、そこに山と積み上げられている吸殻の一本をつまみあげ、口にくわえる。
 散らかった四畳半の部屋。電球は今日日あまり見なくなった裸電球だ。四角い座敷を丸く掃く、ということわざのとおりにまさに散らかっている。
 乱雑に積み上げられたファイルや資料、──あとよく分からない紙類。窓際の良い位置に書き物机があるにはあるが、それも本やファイルなどで埋もれ、上に置かれた電気スタンドに至っては押し寄せる紙たちに完全に流されてしまって傾いている。
 本棚には、長らく手にしていないような百科事典が整然と並んでいるが、その辞典と本棚のわずかな隙間に文庫本や雑誌類を詰め込んでいるので知的な印象など全くもって残っていない。おまけに、その百科事典がアイウエオ順にきれいに並んでいる、というのも全くその辞典が使われていないのでは、という邪推さえ呼び起こさせる。
 壁にかけられたタペストリーは、たぶん、神山の趣味ではないものだろう──やけにセンスのいい柄だった。花をデザインしたものだ。だが、そのタペストリーも傾き、薄汚れ、その姿を台無しにしている。
 散らかりきった室内ではあるが、食べ物のカスや包み紙などが散乱していないだけ、まだマシだろう。この部屋で食べ物の包み紙などが散らばった日には、小さな黒い虫や油虫などが発生するに違いない。
 そんな荒れ狂う部屋(この表現はあまり大げさではない)の主、神山淳司は、そのあたりに散らばった紙をかきわけ、やっとの思いでライターを見つけ出したところだった。百円ライターの小さな炎で、しけもくに火をつける。
 大きなあくび。ああ、鳥の鳴き声が聞こえる……その途中で、神山はふと思い出した。
 そうだ。
 ……今、何時だ?
 目覚まし時計を見ると、時計は壊れているのか、止まっていた。あたりを見回す。そういえば、この部屋に健康な時計がない。
 神山は先ほど投げ捨てた携帯電話を引っつかんだ。
 ──七時五十分。
 神山は慌てて立ち上がった。七時五十分。頭に電球がぶつかった。手でそれを払いのけ、急いで服を脱ぐ。やばい。まずい。

 確実に遅刻だ。


 ※ ※ ※


 蘇洸学園はいまどき珍しい男子高校だ。
 それだけでも珍しいのに、全寮制ときている。無論、私立だ。通う生徒の層は多種多様で、それこそ大企業の息子だとか、政治家の息子だとか、他に平凡な家庭の一人息子だとか、多岐にわたる。金持ち専用の高校という印象はないが、校内に女生徒の姿がないせいか、どこか華のないイメージがある。
 だが、教育に関しては一つの方針があり、普通の高校に比べて教師の数が多かった。一クラスの生徒数も少ないが、教員の数も多めにとってあり、効率的な授業を展開しているのがこの学園の特徴だった。
 蘇洸学園保健医。それが神山の今の立場である。
「……俺を殺す気か……」
 疲れきったふうに、神山は保健室のデスクに伸びていた。
 あれから十分。
 何とか遅刻ぎりぎりに校内に滑り込めたはいいが、朝から猛ダッシュは運動不足の身体にはつらかった。まあ、自業自得だが。
 ラフないでたちに、とりあえずと校医の威厳を保つべく白衣をまとう。黒縁の眼鏡と、白衣。これだけで十分に校医だ──と神山は思っているが、それは神山だけかもしれない。
 あまり細かく手入れしていない短い短髪、無精ひげ。眼鏡でかろうじて教師の体面を保っているが、体格がいいためか校医には見えない。体育教師と名乗ったほうがまだ通るだろう。
 実際、教員をしているというと、大抵の人は体育教師ですかとたずねてくる。いいえ違います校医です、と言えば、珍しいものを見るような顔をされるのが常だった。
「お疲れのところ、申し訳ないのですが」
 唐突に背後から声を掛けられ、神山は思わず「うおっ」と声に出して驚き、椅子から立ち上がった。慌てて振り返ると、そこには見覚えのない華奢な男が一人、立っていた。
 モデルのような長い足に、すらりとした体型。からすの濡れ羽色と称されるような黒い髪は、自然な感じで整えられている。紺色のハイネックの上に白衣をまとい、ぱっと見は医者のようだ。
 ……誰だ?
 思ったことがそのまま顔に出ていたのだろう。目の前に立っている男は、わずかに視線を伏せて、考えるような仕草を見せた。
「今日付けで蘇洸学園の保健医となります、真沢秋之です」
「……は?」
 神山は眼鏡を押し上げながら、聞き返した。
 今日付けで保健医? 保健医は自分だ。……まさか、クビになったのか、自分? いや、そんなバカな。思い当たる節は……ないとは言い切れないが、そんな突然な話はない。
 自称保健医の真沢という男は、少し冷たい感じのする目を神山に向けた。
「大学を出たばかりの新参者ですが、よろしくお願いいたします。──神山先生」
 大学を出たばかり──自分と十ほども年下なのか。最近の若者は、スタイルもいいし、きれいな顔をしている──
 ……じゃない。そうじゃない。そんなことに感心している場合ではない。
 神山は頭をかきながら、愛想笑いを浮かべた。
「い、いやいやいや、ちょっと待ってくれ? 君、……ええと、真沢、先生。俺は何が何だかさっぱりなんだが?」
「は?」
 真沢が不思議なものを見るように眉を寄せた。ひどく冷たい反応だった。役所でこういった受け付けをされると何となく所在がなくなってしまうような反応。彼はおそらく、わざとそうしているわけではないのだろうが。
 そのとき。
 地獄に仏と保健室の扉が勢いよく開いた。







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