「神山ちゃーん! 暇だろうから遊びに来てあげたよーん……って、おぁ?」
 保健室に入ってきたのは、丁寧に整えた髪に、真面目そのもののスーツといったいでたちの同僚の弓岡和彦だった。真面目そうなのは顔と服装だけで、中身はおちゃらけているといったある意味詐欺師の数学教師である。
 この詐欺師もとい数学教師は、神山が一等のお気に入りらしく、空き時間になるたびに保健室に遊びに来ている。もっとも、弓岡の行動はいつも突飛で、誰にも予測することはできないが。
 弓岡は微妙な空気の漂った神山と真沢を交互に見て、顔に似合わず(顔のつくりだけは真面目そのものだったから)、ニヤニヤ笑いを浮かべた。
「ほうほうほう。こいつはどうも、真沢先生。神山ちゃんとケンカでもしましたか」
 弓岡のテンションの高い問いに、真沢は黙ったまま視線だけを弓岡に向けた。……どうやら見た目どおりに無口らしい。
 真沢がしゃべらないのを見てから、神山は口を開いた。
「弓岡。俺は何が何だか、さっぱりなんだが? 彼は──真沢先生は一体?」
「えっ? まさか、神山ちゃん、何も聞かされてないとか?」
 聞かされてない?
 聞かされてないとすれば、まさしく何も聞かされていない。
 弓岡は鹿爪らしい顔をして(真面目な顔つきをしているので、それだけでとても理知的な人間に見える)、簡潔な説明をしてくれた。
「彼、ここの保健医になる人だけど?」
「──は? いや、待て、分からん」
「何がわからないっていうのさ〜? まさしく、彼は神山ちゃんの相棒になる人じゃないの」
 弓岡は明るく訳のわからないことを言った。
「……?」
 神山が小首を傾げると、弓岡は大仰なため息をついた。
「はぁ〜、鈍感だねぇ。バカは死ななきゃなおらないっと。いやはや、このご時世にもバカを治す薬はないときたもんだ。あっ、それは恋の病もおんなじか」
 弓岡は長いため息をつき、悩ましい目つきで神山を眺めた。
「かれこれ俺も神山ちゃんに三年越しの恋心を抱きつづけてかわいそうなことに」
 気味の悪いことを言われ、神山は顔を引きつらせた。この手の冗談を言われるのは苦手だ。大男の神山だったが、艶話だけはどうしても駄目だった。弓岡はそれを知っていて、わざとこういう話を振ってくるのだ。
「……弓岡……」
「アハハハハ。そう怖い顔しないでさ。神山ちゃん、ただでさえガタイいいんだから、凄んだら怖いよ?」
「いい加減にしろよ、弓岡……」
「まあまあまあ。でも、神山ちゃん、本当に何も知らないわけ? 真沢先生のこと。今日付けでここの保健医になる先生だよ?」
「……保健医になるって……俺はどうなる」
「だから。今日から、この学園には保健医が二人ってことよ。神山ちゃんと真沢先生がね」
 ああ──そういうことだったのか。
 神山はようやく納得した。教師の数は前々から多いこの学園だったが、保健医も増やすということらしい。だが、こんな半端な時期に増員とは。
「あっ! いっけね」
 いきなり弓岡が素っ頓狂な声をあげた。
「俺、次の授業の準備しなくちゃならなかったんだわ。じゃ、そういうことで。神山ちゃん、愛してるよ〜!」
 弓岡はからから笑いながら、気味の悪いことを言って去っていった。
「……」
「……」
 弓岡の猛威が去っていき、残された神山と真沢は再び居心地の悪い沈黙に包まれてしまった。弓岡の不思議なテンションの後ではなおさらに、場の雰囲気が冷たく感じられてしまう。嵐に荒らされるだけ荒らされた、荒涼とした雰囲気ともいうべきか。
 神山は頭をかきながら──真沢を横目に見た。
 真沢は何を思っているのか、無表情に保健室の扉を眺めていた。弓岡のテンションの高さに呆れているのか、それとも早くもこの学園に失望しているのか…… 神山には分からなかったが、少なくとも真沢が弓岡のように話し好きではないことはいくら鈍感な神山にも分かった。怜悧な美貌はことさらに近寄り難く、何となく、水面に張りつめた薄い氷のような印象を覚える。大学を出たばかりだといっていたから、まだ二十歳そこそこだろう。今年三十四の神山とは、十ほども年の差があることになる。
 神山は沈黙の居心地の悪さに困って、無理に声を掛けた。
「何も知らないで、……その、申し訳ない」
 真沢がこちらを見た。やはり、表情らしい表情はない。だが、やはり白皙の美貌は思わず息を飲むほどに美しい。
 昔、美術館で見たギリシャ彫刻のようだ──だが、少なくとも彼を彩る美しさは、女性的なそれではない。否、男性的な美しさでもなく……まさに中性的な美しさだった。
 男に見とれる趣味はなかったはずだが、ややうっとりしかけた神山は慌てて目をそらした。変な人間だと思われたかもしれない。それを恐れて、神山はまたもや無為に口を滑らす。
「弓岡は、その、別に俺のそういうのじゃない。ああいう男だから」
「……」
 沈黙。
 ああ──何を言っているんだ、自分。そんなことは、改めて弁解するようなことではない。弓岡の気味の悪い言動は今に始まったことじゃないし、ただの冗談だ。そんなことを改まって弁解すると、かえって怪しいではないか──
 墓穴を掘ってしまったらしい神山は、慌てた様子で頭をかいた。しかし不幸とは重なるもので、挙動不審が過ぎて、元よりネジが緩んでいた眼鏡がその拍子に床へと落ちてしまった。
 カチャン、というフレームが床にあたった音までもが、静まり返った冷えた保健室に響き渡る。
「あ、いや、その、申し訳ない」
 神山は慌ててそれを拾い上げようとして、二度ほどうまく拾い上げられず三度同じ行動をした。三度目、同じことを──眼鏡を拾い上げようとした神山の目の前で、白く細い指が神山の無骨な黒縁眼鏡を拾い上げた。
「神山先生のお話はうかがっています」
 真沢は黒縁眼鏡のレンズを白衣の裾で丁寧にぬぐい、光に透かすような仕草をした。目を細めてレンズを覗くその姿は、ひどく優雅に映った。
「お、俺の話?」
 「ええ」真沢はうなずきながら、眼鏡を神山へ返した。「生徒に人気があるとか……良く聞きました」
「……はあ」
 神山は眼鏡を掛けながら、曖昧な返事をした。とても年長者の受け答えとは思えないが、だからといってなんと返せばいいのかさっぱり見当がつかなかった。
 仕方なしに、当り障りのないふうに改めて言葉を返す。
「実際、その、本当のところはどうかは分かりませんよ」
「改まらずにお願いします」
「……は?」
 間抜けな顔をして聞き返すと、真沢はその整った顔にとりたてて表情を浮かべず、淡々と言い直した。
「神山先生が先輩ですから、普通に話していただけると助かります」
「……はあ」
 同じような気の抜けた返事を返す。会話がこんなに難しいものだったとは、彼と話すまで気にもとめたことがなかった。それとも、自分が会話の展開能力に劣っているのだろうか。今まで自覚していなかっただけで、周囲は自分と話すたびに苦労していたのかもしれない……
「ようやく理解できました」
「り、理解?」
 またもや、彼がよく分からない発言をした。何故かびくびくしながら聞き返す神山に、真沢は相変わらずの淡々とした様子で律儀に答える。
「先生が教職員ともども、学園で愛される理由がです」
「──愛される」
 何となく、嫌な予感がした。学園関係者全員に好かれていることはありえないが、まあ、そこそこ人間関係も円滑に維持しているという意識はある。それは職場においての人間関係の話で、愛されるとか愛されないとかそういった話ではなく──
 神山は、第六感にひしひしと感じるものがあって思わず顔を引きつらせた。
 しかし真沢は神山の予感に気がついた様子もなく、抑揚に乏しい言い方で続けた。
「先生が同性間の性交の対象に選ばれる理由が」
「………………………………」
 ぴくり。派手に顔が引きつった。せ──せいこう。言葉のもつ艶っぽさに、神山は自分の頬に朱がさしていくのを感じた。二十そこそこの若者に己の無様な姿を見られては一大事と慌てて腕で頬を隠すが遅かった。
 真沢はこちらをじっと見つめ──まばたきを二度三度、ゆったりとしたペースでやった。それから、思案するように視線を他所へと流す。
「言い方が卑猥でしたか。……セックスの対象に先生の名前があがるのは、いたって自然なことだと私は思いましたが」
「……う、あ、う〜……」
 何の話だ。何の話なんだ。どうしてそんな話になるんだ。というか、何なんだ。ああ、訳がわからない。何が何なんだ……。
「先生は、性……セックスの相手にしたいナンバーワンだそうです。私などは、その前評判を聞かされていましたから、一体どういう優男なのかと思っていました。しかし、それは誤りだったと思います。つまり、先生は同性愛における男役に選ばれるナンバーワンということだったんですね。端的にいえば、挿入の ──」
「頼む! それ以上はやめてくれっ」
 神山は悲痛な叫びを上げて、その場に頭を抱えてしゃがみこんだ。頭がパンクしそうだ。あまりの混乱と熱暴走に湯気が出る。
 自分の反応が意外だったのか、真沢はやや驚いた口調で(それもほんのわずか、口調が変わっただけだったが)、言い繕う。
「先生? 誤解しないでください。先生は少なくとも両性……ああ、いえこの場合は同性ですが、その合意の上にもとづいて行われる性交渉の相手のことを言っているのであって、陵辱強姦の相手では決して」
 言い繕えてない。
 しかも、何で同性愛なんだ……ああ、きっと弓岡のせいだ。弓岡があんな気味の悪いことを言って去っていったから。
「被虐嗜好のある方は、先生に陵辱願望を抱くかもしれませんが──」
 ……弓岡のせい……のはず……だと……思いたい……。







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