10


 良く晴れた日の午後──
 保健医の仕事を一段落つけた神山は椅子の背もたれに体重を預けた。大きな伸び──欠伸も出た。涙のにじむ目じりを、眼鏡を上げて指で拭う。
 一連の事件から、一週間ほどが経っていた。その間、特に変化はなく……神山は実際を見ていないが、弓岡の持ってきた話では倉も何とか学校には来ているようだった。ただ、あんなことがあったためか倉はもう藤木の傍にいることはなくなり、藤木もまた倉を傍に寄せることはしなくなったらしい。
 ──無理もない、と神山は思った。
 しかし、倉はきっと立ち直る。何と言ったって、倉はまだ若い。まだまだ未来があるのだ。神山はそっと白衣の上から倉に刺された傷を押さえた。
「……傷が痛みますか……?」
 うかがうような案じる問いに、神山は視線を向けた。
 薬品棚の整理をしていた真沢が小首を傾げてこちらを見ている。眼鏡のレンズ越しの瞳には、感情があまり表れない。それはもう生まれつきなのだと神山は知っている。
「い、いや。そうじゃない。……ただ、その、倉のことを思い出して」
「……ああ」
 真沢は顔を曇らせ、身体を神山のほうに向けた。薬品棚を背に、白衣のポケットに手を入れてうつむく。
「彼があんな行動に出たのは、結局、私が──」
「真沢」
 神山は椅子から立ち上がり、うつむいた真沢のそばへ近づいた。
 薬品棚を背にする真沢、その前に立つ神山──追い詰めるような位置。追い詰める気はなかったが、真沢は肩をすぼめて小さくなった。まるで追い詰められているように。
「倉は、きっと立ち直る。……絶対に」
「……ですが」
 神山はそっと真沢の黒髪に指を絡めた。
「倉があんな行動をしてしまったのは、俺が藤木とのことをきちんとしていなかったからだ。……悪いのは俺だ。おまえは悪くない」
「……先生は、悪くありません」
 力なく答える真沢がひどく小さく見える。ひどくはかなげで、神山は思わず真沢を抱き寄せた。
 悪いのは、きっと自分だ。
 あの時、藤木のことをもっとうまく──決着をつけていれば。
「先生」
 真沢が神山の白衣の襟をつかんだ。握り締めるようにされると、どうしたらいいのか分からなくなる。神山はぎこちなく、真沢の背中に回した腕に力を入れ──
 と、そのとき保健室の扉が開いた。
「!」
 慌てて、腕を解いて離れる。気のないように適当にデスクの上に広げてあった書類を眺めるふりをする──真沢もやや挙動不審に薬品棚の瓶を手にしてラベルを見るふりをする。
「……先生」
 保健室に入ってきたのは──倉だった。
 驚いて彼を凝視する、神山──そして真沢のレンズ越しの瞳。四つの目に見つめられて、倉はわずかに動揺して顔を伏せた。
「どうした、倉……」
 神山の声に促されるように、倉は一歩、前に足を踏み出した。
 彼は冴えない顔色をしていたが、やにわに決意した顔になると、深々とその場で頭を下げた。


 ※ ※ ※


 飛行機雲がはっきり映る水色の空──
 明日はおそらく雨だと思いながら、藤木巽は屋上のフェンスにそっともたれて空を眺めていた。
 通り抜ける屋上の風は、どこかゆるやかで柔らかい。陽射しは飛行機雲の合間を縫って屋上に舞い降りる。
「んー、いいねぇ。御曹司、秋空の下で物思いにふける」
 明るい声がした。
 藤木はやや大儀に視線を空から声の主に向けた。声の主は見なくても誰か分かったが、無視するほどの余力はない。藤木とて、無意味に人にケンカを売るほど無謀ではない。それに、この声の主はそうそう嫌いな種類の人間ではない。大好き、というわけではなかったが。
 声の主は、くわえ煙草でこちらに向かって腕を突き出していた。何をしているのかと思えば、写真のアングルを確かめるように、右手と左手で四角を作っている。藤木は小さく肩をすくめた。
「その題じゃ四流が落ちですね」
「あらら」
 弓岡は肩をこけさせて、笑った。生真面目な姿のこの理科教師は、中身と外見のギャップが激しい。授業は、まんま生真面目そのものだったが、終礼のチャイムがなると途端におちゃらける。それが演技なのか、それとも素なのか、さしもの藤木にも分からなかった。ただ、思慮深いことは、今回の件でよく分かった。
 弓岡はネクタイの結び目を緩め、タバコを挟み持って離した。
「そういや、倉はどうよ?」
 不意に痛いことを言われて、藤木は眉を寄せた。
 だがそれを知られるのが癪で、腕組みして肩をすくめてみる。ませた仕草だと大人に不興なこの仕草だが、藤木にとっては自然な動作だ。
「倉は、保健室に行きましたよ。まあ、別に倉がどうしようと、僕には関係ないですけど。……しかし、まあ──奴はバカではありませんから、それなりに円滑に解決しようとするでしょうね」
「ふうん? 随分、投げやりなことで。家来に冷たい暴君っていうのもなかなかね」
 弓岡のはっきりした物言いに、藤木は軽いため息をついた。怒る気にもなれない。大体、怒っても無駄だ。
 投げやりな気分で、大げさに両手を広げる。
「倉とはこれで終わりです。もう絶対に近寄りませんし、近寄らせません」
 弓岡は乾いた笑い声をたて、タバコを吸ってまた離した。
「そいつはまた嫌われたもんだね。ま、あんなことがあったら仕方ないといえば仕方ないか」
 「違いますよ」藤木は目を閉じて自嘲気味に笑った。「同族嫌悪です」
 考えもしなかったことだったのか、弓岡が珍しく驚いた顔つきになった。キーワードを繰り返す前に、藤木はやはり投げやりに説明を加えてやる。
「残念ながら、僕と倉はおそらく同じスタンスでした。奇しくも、僕は神山先生に味あわせた屈辱を、間接的に──まあ、走りの擬似的な部分だけですが倉に体験させられたわけです」
 そう、倉と自分は同じだ。
 藤木はそれが分かっていた。
 あの時、倉が自分のためだと言い出したとき、反吐が出るほど嫌な気分になったのは、おそらく同族嫌悪だったのだ。今では良く分かる。神山に対して自分がしてきたことと、倉のしたことは根が同じだ。核となるものは、自分勝手な、醜い自己愛。
 弓岡は説明不足の言を理解したようだった。納得だか感心だか良く分からない相槌をうって、長いため息を吐いた。
「少年は傷ついて強くなるって言うし。……まあ、あれね、わざわざ悪役に徹してまでも恋に身を捧げる御曹司ってのも男気ありすぎてどうかと思うちゃうけど?」
 弓岡は頭をかきながら、首の関節を鳴らす仕草をした。関節の音は、風にかき消されて聞こえなかった。
「どうしても分かんなかったんだ、これがさ。どうして真沢先生なのかなと。……ま、あの神山ちゃんを見てりゃあ、痛くて痛くてたまんないかな。なんだかんだ言っても、本当、みんな男気ありすぎ」
 弓岡が言いたいことは、すぐに分かった。やはり──この教師は、侮れない。
 藤木は言葉に困って──それ以上追及されると困るので、やけくそに言葉を放り投げた。
「いいじゃないですか、美談ですよ」
 投げた言葉──弓岡は突然、弾かれたように笑った。うけたらしい。……良く分からなかった。
「そうそう、少年はそうやって大きくなりなさい!」
 バカにされた気がして、藤木は顔をしかめた。確かに、十年ほど長く生きている相手に敵うはずはないが、それでもやっぱり何となく悔しかった。
「これで僕と先生はめでたく失恋負け組ですか?」
 悔し紛れに言ってやると、弓岡は「んー」と全くひるんでいないふうにニヤニヤ笑った。
「先生はかっこいいので相手には困らないんだよね、これが」
「……相手って、僕のことですか」
 普通に聞き返してやると、弓岡は鹿爪らしい顔してあごに手をやった。
「いや、残念。先生の好みは神主さんだから」
「それは残念です」
 藤木は軽く笑って、肩をすくめた。制服のポケットに手を入れると、指先に空っぽのフィルムケースが触れた。入れっぱなしだったそれに、藤木は改めてまた肩をすくめた。すくめてみせたが──弓岡は気がつかなかった。


 ※ ※ ※


 神山淳司はそわそわしていた。うろうろしていた。きょろきょろしていた。
 狭っ苦しいアパートの狭い台所──真沢が忙しそうに行ったり来たりしている。コンロの上には、オニオンスープ。まな板の上にゆでたニンジン。慣れた手つきで調味料を選ぶ後ろ姿は、なんだか神山から見ればプロの料理人に見えた。
 所在無さげに立ち尽くす──神山は冷蔵庫の前で、うろうろしていた。
 真沢と……な関係になってから、真沢は良く家に来るようになった。意外にも真沢は料理がうまく、また家事のこまごまとしたことなども器用に片付ける能力があった。神山の自堕落そのものの生活に我慢がならないのか、真沢は掃除、洗濯、料理とそれはそれは至れりつくせりでやってくれる。
 今日も今日とて、夕飯を作ってくれている。……のだが。
 神山も真沢にやらせっぱなしというのに引っかからないわけはない。いつもいつも家のことをやらせてばかりは悪いと思っている。今日の今日こそは、真沢の手伝いをしようと台所へ向かった……のだが……
 真沢が不意に振り向き、冷蔵庫へ手を伸ばした。冷蔵庫の前に立っていた神山は慌てて左へ避ける。
 真沢は目的のものを冷蔵庫から取り出し、今度は食器棚に手を伸ばした。しかし食器棚の前に立つような位置に逃げていた神山は、またまた慌てて右へ避けた。
「……」
 真沢が動きを止めた。神山も動きを止める。
 ため息──をついたのは、真沢だった。
「先生。……失礼ですが、はっきり言ってもいいですか?」
 真沢は眼鏡の位置を直しながら、小首を傾げた。見慣れた仕草だったが、どうも呆れているような雰囲気がある。
「う、うん? な、何だ?」
「──邪魔です」
「……う」
 はっきり言われて、返す言葉がない。何か反論しようとしたが、結局何も思い浮かばず、沈黙する。
「先生はもういいですから、休んでいてください。すぐに出来ますから」
「う……そ、そうか」
 ただ真沢を手伝いたかっただけ──とは到底言えず、神山はぎこちなくうなずいた。台所に立ってはいたが、神山のしたことと言えば手を滑らせて空の鍋を下に落としたことと、菜ばしを床にばらまいたことだけだ。
 神山は素直に、すごすごと台所を出た。まさに、しょんぼりというにふさわしい心境だった。
「神山先生」
 真沢に呼び止められて、神山は振り返った。何か用事を頼まれるのでは、という期待を抱いた神山の手に、真沢はやたらと派手な冊子を手渡してきた。
「う、うん……? 何だ、これは……」
 無意識に受け取り、それを見つめる……神山の頬がカッと赤くなった。
 これは──
「それは冷蔵庫に入れてなくても腐りませんが」
 真沢の冷静な声が更に追い討ちをかける。神山は反射的に言い訳してしまった。
「そ、これは、その、違う、そうじゃないんだ」
 手の中の冊子──ポルノ雑誌を握り締めて後ろへ慌てて隠匿する。この間のまま、冷蔵庫に入れっぱなしだったことをすっかり忘れていた。
「前に朝食を作ったときにもそれが冷蔵庫に入ってたのですが……何か理由があるんですか?」
「う、あう……」
 そんなに前からばれていたのか。しかも朝ご飯を作ったときと言えば、これを冷蔵庫に入れた翌日だ。……隠した意味がほとんどない。
「先生」
「う、す、すまん!」
 急いで頭を下げて謝る。
 しかし返ってきたのは、意外に普通の真沢の声だった。
「……どうして謝るんですか?」
「え、いや、だってほら」
 真沢という存在がありながら、こんな──いや、これは真沢と付き合う前に買ったものだが、そうとはいえ、やはり真沢からすればいい気分はしないはずだ。
 だが真沢は相変わらずといえば相変わらずな、無味乾燥な顔つきでさらさらと続ける。さらさら。……本当に、何の憤りも怒りもその表情からは感じられない。
「別に、見た限りでは法律に抵触するようなものではなさそうでしたが。──しかし先生」
「う」
 きた。きっと非難される。どう謝れば一番いいだろう。とにかく、頭を下げて──謝り倒すしかない。
 真沢は小首を傾げて、神山を見つめる。感情は、やはり、あまりない。怒っていないように見えるのが、神山には一番怖い。
「先生は胸の大きな色白の女性が好みですか? その雑誌の趣向がそのようでしたので」
 思いも寄らなかったことを言われて、神山はぽかんとした。真沢の顔を見たが、真沢は全く──全然、神山の考えているようなことに頓着していなかった。
「その雑誌を見ますと、下着は黒が良さそうですね」
「え」
 言われたことがすぐに理解できなかった。
 下着、が、黒。
 …………
 ……
 神山は頭を抱えて、奇声を発した。
「うわあああああ……」
 頭の中がぐちゃぐちゃだ。どうしてどこがどうきて、そんな話になるのだろう。大体、どうして真沢からそんな……
「先生? 恥ずかしがらないでください、先生。別に私はそんな──先生は正常な嗜好だと思います」
 更に真沢が神山の顔の火に油を注ぐ。
「……うわああ〜」
 違う、そうじゃない。
 そうじゃない──神山は頭を抱えて胸中で叫んだ。
 神山の目下のところの好みのタイプは真沢で、自分で言うのもなんだが真沢にべた惚れで、
 ──そんな、真沢本人からそんなことを言われたら、かなり痛いものがある。
「先生。どうしたんですか? 先生、私に雑誌を見られたのがそんなにショックでしたか?」
 違う、自分がへこんでいるのはそんなことではなくて。
 そういうことじゃなくて。
 だが、やっぱり頭が沸騰しているせいでうまく説明できない。せめて、おまえが一番だと言えるだけの度胸とずうずうしさがあったら。
 ……そんな度胸、神山にあったら神山の今の人生は変わっていただろうが。
 神山はやはり神山で、細い声で抗議するのが精一杯だ。
「か、……勘弁してくれ……」
「──先生」
 真沢はわずか声のトーンを落として、こめかみに指先をあて、視線を落とした。
 そっと、秘密を打ち明けるような様子で続ける。
「ですから──少しでも先生の嗜好に近づければと、黒の下着を着けてきたのですが」
 相変わらずの淡々とした物言いだったが、神山が頭を抱えてその場にうずくまったのは言うまでもない。

<end>









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