※ ※ ※


 怪我は、大したことがなかった。
 それはもう、笑えるぐらいに大したことがなく、神山は派手に一時気を失いはしたが、それは単なる……そう、先日までの荒れた生活のつけが一気に押し寄せただけで、倉に刺された傷が問題ではなかった。実際、倉のナイフはかすった程度だったらしい。
 刺されたにしては奇跡的に軽傷だと医師は笑い、一応念のために入院することを神山に勧めた。
 その医師の言葉を聞き──神山は現在、病室のベッドで天井を見つめていた。
 時刻は六時頃だろうか。窓から見える景色はもうすっかり夜だ。
 倉に刺された後、あっけなく気を失ってしまったが、今ごろ、倉はどうしているだろうか。人を刺したということにやけを起こして、大変なことをやらかしていなければいいが──近頃の若者は、何が引き金になっていてどう感情を爆発させるか分からない。折りたたみ式とはいえ、ナイフを持っていたのも一昔前ならば考えられないことだ。まさしてや、倉のような、目だって素行が悪い生徒だとなお更。
 神山は、辛いため息をついた。
 あの場にいた者は、ひょっとしたら神山が倉を守るために飛び出したと思ったかもしれない──そう思うと、たまらなく憂鬱だった。それが真実ならば──神山が倉を慮って前に飛び出した、それが真実ならば憂鬱な気分には陥らないだろう。しかし、本当は……そうではない。
 神山は倉のことを考えて、前に飛び出したわけではなかった。あの時、倉がナイフを向けたのが──
 窓の外をじっと眺めていると、遠慮がちのノックの音が聞こえた。
「ああ、どうぞ」
 神山は身体を起こし、来訪者を迎えた。
 扉を開けて姿を現したのは、真沢──ではなかった。生真面目なスーツ姿の弓岡だった。頬に貼った湿布がひどく痛々しい。
「……弓岡」
 神山は更に憂鬱な気分になった。
 しかし、神山の憂鬱な気分と反して、弓岡は明るく笑ってひょこひょことベッドの傍に近寄ってきた。
「神山ちゃん、怪我どう?」
「……ん? あ、ああ、まあ、……大したことはないそうだ」
 曖昧に視線を逸らしながら答えると、弓岡は「そう」と大して変わらない口調で相槌をうった。医師から、おおよその状態は聞いていたのだろう。彼はネクタイの結び目を緩め、腰に手を当てた。
「こっちはいろいろあったけど、まあ、何とか。倉はちょっとヤバイ感じだったけど、家に帰らせた。藤木はまあ、あのまんまかな。ちょっと機嫌悪かったみたいだけど」
「……倉は、大丈夫そうか?」
「ん、大丈夫だと思うよ? さっきまで混乱してたみたいだけど、だいぶ落ち着いたみたいだから。神山ちゃんの容態、後で倉に連絡しとくよ」
 弓岡の答えに、神山は深い安堵のため息をついた。倉のことが気がかりといえば気がかりだったのだ。やけを起こして、大変なことをやらかすのでは──と。
 弓岡は苦笑するように、眉を寄せて笑った。
「そうやってナイフを持った生徒の前に飛び出すとか、男気あげることあんまりしないでよね。ま、らしいといえばらしいけど。死んでたらどうする気よ、全くもう」
「……す、すまん」
 大げさな仕草で、弓岡は肩をすくめた。ふと真面目な口調で付け加える。
「倉のこと、警察には連絡してないから。親御さんには電話したけど──ありゃダメだね。共働きらしいんだけど、やっと連絡とれたとほっとして倉のこと伝えたら、落ち着いたら家に帰らせてくださいだって。息子のことなのにかなり適当」
「……そうか……」
 何ともいえない嫌な気分になる。職業柄、いろいろな家庭を見てきたが、やはり倉のような家庭を見ると辛い気持ちになってしまう。
「そういうわけだから、警察……神山ちゃんが言いたかったら、どうぞ? 何がどうあろうと、神山ちゃんが刺されたのは変わりないでしょ」
「……」
 神山は小さく肩をすくめた。
 弓岡も肩をすくめた。
「そうだろうと思った。ナイフで刺されて、それでも自分が刺したなんて救急車の中で何度もうわ言みたいに言うんだから、わけないね。何でそういう男気溢れてることするかな」
「う、うわ言」
 神山は思わず顔を赤くした。救急車の中でうわ言を言っていた自分を想像すると、格好悪くて穴があったら入りたい気分だった。
「ホント、いざというときは男気あるんだから。もうありすぎ」
 頬の湿布に手を添えて、流し目でこちらを見つめる。
「神山ちゃんの鉄拳制裁、もう痛いの何のって。美男が台無し」
 ぎくりと神山は顔をこわばらせた。その反応が面白かったのか、弓岡は湿布から手を離して、神山の膝元をばんばんと叩いた。笑い声をたてながら。……井戸端会議のおばちゃんのようだ。
「アハハハハ、何、神山ちゃん気にしてるわけ? でもねぇ、良く考えてみたら、神山ちゃんは怒ってしかりよ?」
「弓岡……しかし」
「真沢先生を襲おうとしたのは、事実。まあ、未遂だったけど。……あ、キスしちゃったか。ともかく、俺は藤木に頼まれて真沢先生を襲ったわけよ。……悪いのは、俺でしょう」
 藤木に頼まれて──あの屋上で、そういえば藤木もそれを認めるようなことを言っている。だがしかし、どうして弓岡は藤木の頼みを聞いたのだろうか。やはり、弱味を握られていたのだろうか。
「どうして、藤木の頼みを聞いたんだ……? 弱味を握られているのか」
 「……ん……」弓岡は少し考え込むような顔つきになった。「……まあ、そんなところかな」
 やはり、藤木に弱味を握られていたのか。神山は、声のトーンを落として友人を心配した。
「大丈夫なのか……? 藤木に弱みを握られて」
「あ、それは平気平気。大したことないから。もう解決済み……かな」
「そ、そうか。だったらいいんだ。……良かった」
 ほっとして、神山は顔を緩めた。それを見て弓岡はわずかに目を細めて、声なく笑った。
「安心してよ? 真沢先生は、俺の好みじゃないし……今後、手を出さないよ。……あー、でもだからと言って、神山ちゃん」
 弓岡は自分のネクタイの端をつまんで、意味もなくくるくると回した。
「惚れた相手に手を出されたら、怒らないと。じゃないと嘘よ? 神山ちゃんは晩生なんだから」
「……っ」
 返す言葉がなかった。
 どうやら、弓岡は神山の苦悩などお見通しだったらしい。この口調では、神山と真沢が通じ合ったことも分かっているようだ。
 神山は赤面して、意味のない咳払いをした。ひどく気恥ずかしかった。
「そういえばねぇ」
 弓岡はニヤニヤ笑いながら、ネクタイの結び目に手をやって、きちんと締めた。
「真沢先生ねぇ。……ものすっごい怒ってるみたいよ。美人って怒ると怖いって本当。俺が神山ちゃんの見舞いに行かない?って誘ったら、真沢先生、行きません、だって」
「な、なに?」
 怒っている?
 唐突な知らせに、神山は思わず身を乗り出した。真沢が怒っている。──どうして?
 弓岡は鹿爪らしい顔をして、腕を組んだ。
「理由は俺にもわかんないなぁ。……けど、とにかく、神山ちゃんに対して怒ってるみたいよ」
「………………」
 何故怒っているのだろう。……何か怒らせることをしただろうか。心当たりがない。思い当たるものを無理やり上げるとすれば、やはり昨日の……。
 いや、それとも、朝ご飯の……
 ……決め手にかける。
「怒ってるよ。ものすっごい。……あれは本物だね。ひょっとして俺のことで怒ってるのかなって思って、空き教室でのこと謝ったら、別に減るものではないので結構ですって。のに、神山ちゃんのことになると、もー、頑な。神山ちゃんの話になると急に話聞いてくれなくなるし」
「そ、そんなに怒ってるのか。……真沢、学校にいるのか? 今も」
 焦っている神山に、弓岡はなおもニヤニヤ笑った。
「今もいるんじゃない? 保健室に帰ってったのは見たけど」
「……」
 どうして怒っているのだろう。何か嫌われるようなことをしてしまったのかもしれない。……やにわに、神山は落ち着かなくなった。ああ、入院なんてしてないで、早く真沢と会って話したい!
 そわそわしている神山を見て、弓岡は声を殺して笑った。
 だが、笑われた神山は、弓岡の態度にも気がつかなかった。もう頭の中は真沢がどうして怒っているのか、その原因を探すことで一杯で、弓岡の存在も忘れかけていた。
「ま、そういうことで。俺、そろそろ帰るよ。お大事に」
 弓岡はベッドから離れ、扉のほうへ向かった。おざなりに、神山はうなずく。
「あ、ああ、わざわざ……報告、助かった……」
「ねえ、神山ちゃん」
 大きめの声に、神山はハッと我に返った。顔を上げ、視線を扉の方へ向けると、弓岡がからかうような顔をして立っていた。
「う、うん?」
「いいこと教えてあげよっか」
 にやりと蠱惑的な笑み。神山は本能的に嫌な予感を感じ取る。答えられずに黙っていると、弓岡は芝居がかった仕草で人差し指を立てた。
「しつこいオヤジのエッチって、若い子に嫌われるんだって♪」
 顔が火を吹いた。
「え、エッ……」
 不意打ちのダメージになすすべなく、顔が真っ赤に変わる。
 顔が赤くなったばかりか、変な汗も噴き出してきた。慌てて腕で顔を隠すが、喉はからから、目は白黒で平生を保てない。どきどき音を立てる心臓が、喉元までせりあがっている感覚に陥る。おまけに脳裏に真沢の顔が浮かんだものだから、もう何がなんだか分からなくなった。
 ずるずると布団に沈み、神山は枕で顔を覆い隠した。
「以上、忠告終わりでしたっ」
 弓岡は明るくそう言い捨て、病室を出て行った。
 扉が閉まる音に、神山は反射的につかんでいた枕を入り口に向かって投げつける。
「も、もう二度と来るな!」


※ ※ ※


 足音を忍ばせて、あたりをうかがいながら歩く。まるでカートゥーンアニメのように、おっかなびっくりといった体で壁際から頭をのぞかせ、周りに誰もいないことを確認する。コミカルな仕草だったが、いたって神山本人は大真面目だった。
 校内は、静まり返っていた。白衣のポケットから、携帯を取り出して時間を確認すると、六時半を少し過ぎた時刻を示していた。この時間帯になると、もうほとんど生徒の気配はない。教師は何人か雑務で残っているだろうが、職員室にいるはずだ。
 神山の今いる場所は、一階の渡り廊下だ──元々、平日昼間、授業がある時間でも人通りの少ない所だ。六時半過ぎに人通りが多いはずもない。
 安堵のため息が出た。普段どおりの歩調に戻って、廊下を進み、保健室を目指す。この一階の渡り廊下の最後に、保健室があった。
 保健室の扉は、黙りこくっていた。厚いすりガラスの向こうからは、薄ぼんやりとした明かりが伝わってくる。中に誰かいるのは間違いない。この時刻、この場所、中にいるのは真沢でしかありえないが。
 弓岡が病室を出て行ってから、ここまで数十分、いかに近場の病院だったとはいえ、随分経ってしまっている。それでも真沢が学校に残っていたということは、神山にとって幸いとしかいいようがなかった。
 神山は改めて、白衣の襟を正した。
 いささか緊張気味に、保健室の前に立つ。深呼吸。扉に手をかけ、ゆっくりと開く。
 ……扉が開く音に、窓際に立っていた人物が振り返った。
 眼鏡越しの、透き通った瞳……すらりとした身体つきには、白衣が良く似合っている。最初に出会ったとき、まるでギリシャ彫刻のようだと思ったことを神山は思い出した。今でも勿論、彼の白皙の美貌は変わらない。
 だが、真沢は出会った当初の時と違って、現れた神山の姿に大きく身を持ち崩した。
「こ、神山先生……どうして、……ここへ」
 真沢はそれだけ言うと、言葉が思い浮かばなかったのか、軽く眉を寄せた。
 神山は真沢の言葉を揶揄するでも笑うでもなく、軽く受け流した。
「安心しろ、俺は幽霊じゃないぞ」
「……そういう、……意味で言ったわけじゃありません」
 ため息混じりの、少し疲れた言葉が返ってきた。眼鏡のフレームに指先を添えながら、わずかに視線をそらす。この仕草は、もう見慣れた仕草だった。
「……そうだろうな」
 神山も黒縁眼鏡の位置を直し、後ろ手で扉を閉めた。ガラガラ、という音が嫌に大きく保健室内に響いた。
 扉の閉める音が静まると、保健室内は急激に冷え込んだ。
 真沢と自分との距離は、五歩ほど──だが不用意に近づけない。慣れたふうにして、関係を壊すことが怖かった。緊迫した、五歩の距離。安易に埋めることはできなかった。おそらく、恋愛経験が非常に不足していたせいで。
 真沢はかすか息を飲んで、出会って初めて神山をにらんだ。まっすぐ向き直り、神山を怜悧な瞳でにらみ据える。
「……どうして、ここに来たんですか。入院したはずです。……弓岡先生がそう教えてくださいましたが」
「──抜け出してきた」
 神山は少し肩をすくめて、面白くなさそうに言った。
 そう、神山は病院を抜け出してきた。弓岡から、真沢が怒っていると聞いて、いても立ってもいられなかったのだ。怒っているのなら、理由を聞いて、自分が悪かったら謝って、……
 ……本当は、少し違う。
 端的に、……簡単に言ってしまえば。
 神山は照れてしまいそうになる自分をごまかそうと、無理やり仏頂面を作った。ここで照れてしまったら、ひどく自分が幼いような気がした。
「弓岡から、聞いた。おまえが怒ってると──しかも、俺に対して」
「怒っていません」
 即答。神山の言葉を吟味する間もなく、真沢は怒った口調で言いのけた。その言い方が、何よりも明らかな怒りの証明になることは真沢自身も分かっているはずだったが、それでもそうやって神山を遠ざけざるをえないようだった。
 無論、神山も彼の超反応で、彼の不機嫌を感じ取ることができた。鈍感だが、それほどまでに鈍くはない。真沢の不興に、神山は眼鏡の縁に触れた。
 少し、困った。
 怒っている人間に、怒っているかと聞いても火に油を注ぐだけ──しかしだからといって自粛してしまえば、会話がこれ以上進展しない。
 まあ、これだけは確かだ。弓岡の言う通り、真沢は怒っているらしい。
 神山は視線を落とした。
「……俺が何かしたか」
 「別に」真沢は冷たく、素早く返してきた。「どうしてそんなことをいちいち聞くんですか」
 取り付く島のない言い方というのは、まさにこのことを言うのだろう。冷たすぎて、どこに手を引っ掛ければいいのか分からない。白皙の美貌は、難攻不落の砦に変わる。
「そんなに怒らないでくれ」
 神山は仏頂面を諦めて、顔をしかめた。所詮、自分は自分流のやり方でしかできない。洒落た言葉遣いも、洒落たシチュエーションを演じることもできないのならば、せめて誠実に真面目に振舞うしかない。
「俺が何か気に障ることをしたのか? ……俺は気がつかない男だから、はっきり言ってくれ。その方が助かる」
「……」
 真沢は眉根を寄せて、神山をにらんだ。しかし、そのにらむ視線には、どこか険しい色がある。
「真沢。俺は、わけの分からないまま、おまえに嫌われたくはない。原因がわかれば、努力して直すし反省もする。だが、何も言ってくれなかったら、どうしようもないだろう?」
 そっと二歩ほど、真沢に近づく。
 真沢は過剰に反応して、反射的に声を荒げた。
「別に怒っていません!」
「怒っていないわけがないだろう!?」
 瞬間的に苛立って、神山も声を荒げた。売り言葉に買い言葉、真沢が眉をつり上げて神経質に怒鳴り返した。
「だから! ……どうして先生はそうなんですか! もう嫌だ! 嫌なんです! ……自分なんて、嫌いだ!!」
「真沢!」
「先生は何も考えてない!」
 ヒステリックに叫ぶと、真沢は頭を抱え、その場に膝をついた。うずくまるように前かがみになって慟哭に近い言葉を吐く。
「先生が、もし死んでしまったら……先生が大変なことになっていたら……! 私はどうしたらいいんですか。先生は私の事なんか考えてない! 先生は……そんなつもりじゃないことは、私にも分かってます! 分かってるのに、どうして分からないのか、もう自分でも分からない!」
 支離滅裂な内容だった。言葉を補えば言いたいことは分かったが、理性的な彼の言にしてはあまりにも不備が多すぎた。
「倉の前に飛び出したのは、倉のため……、そんなことは分かっています! そんなことは、分かってるのに、……分かってるのに、私は先生が私の前に飛び出したと思った。私の前で刺されて、……先生が刺されて……。もうあんな思いはしたくありません……! 先生は何も考えてない! 私が、どんな思いで……!」
「真沢……!」
 気がつけば、神山は真沢を抱きしめていた。
 言葉もなかった。もうどうしたらいいのか、どんな言葉をかければいいのか、分からなかった。ただ、抱きしめることだけが確実で自分の持ちうる最良の方法だった。想う相手を慈しむためには。
「倉の前に飛び出したのは、……倉のためなんかじゃないんだ。俺はそんなできた保健医じゃない」
 低い声で囁く。真沢の耳元で、甘い言葉を囁くように。──神山の、精一杯の甘い言葉だった。
「おまえが刺されると思った。それだけは、ダメだと思った。だから、自分が刺されればいいと思った。……そうすれば、おまえも、倉も、助かると後から気がついた」
 震える真沢の細い肩。抱き寄せても、抱きしめても、自分の体温で温めることはできない……だから、自分の精一杯で真っ直ぐ伝えるだけで。
「今だって、おまえに会いたくて病室を抜け出した。怒ってると聞かされて、どうしてなのかと──。悲しんでいるのなら力づけたいと思う。だが、怒っていても、傍にいてやりたいと思う。それが、……それぐらいしか俺には出来ないからだ」
 目を閉じて、真沢の髪をなでる。自分は、何も出来ない。気の利いたこともいえないし、胸を張れるほど強くもない。正しくもない。できることは、不恰好に愚鈍に受け入れることだけだ。
「先生。……その優しさは、……無意味です」
 真沢がか細い声で反駁した。そっと、神山の背中に手を回して、すがりつく。怯えているようだった。
「私は、先生にそんなふうに思われるような……素晴らしい人間ではありません。……私のしてきたことを知っているはずです。私は恩をあだで返すことしか出来ません。先生の優しさに報いることは、できません……だから、もう傷つけないで……」
「──真沢」
 そっと、真沢の顔を両手で支えて見つめた。至近距離で見つめる真沢の目は、落ち着かなくさまよう。
 神山は真沢の唇に、自分の唇を押し当てた。触れる感触が伝わると同時に、唇を離す。惑う彼の唇の前で、なけなしの言葉。
「おまえ以外に、優しくするつもりはない」
 真沢からの答えが返る前に、神山は再び真沢の唇に口付けた。ついばむように、何度も唇を合わせる。誘うように開いた真沢の唇の合間に舌を入れて、歯列をなぞる。
「んっ……」
「真沢……」
 昨日よりも激しく、口腔を荒らして舌を吸い上げる。伝いこぼれ落ちる唾液は、どちらのものか分からない。真沢の細いあごを伝って糸を引くそれを、神山は唇で拭い取るようになぞった。
「せ、先生……、んっ……」
 体重をかけて、真沢をゆっくりと押し倒す。後頭部を打たないように、後ろに手を回して横たえさせると、真沢は目元を染めて目を伏せた。
 神山は真沢の額や髪、鼻先に口付けを落とし、頬に手のひらで触れた。
「おまえのことが好きなんだ、真沢。何を言われても、おまえがどんなに自分を見限っても。俺はおまえがおまえよりずっと好きだ」
「先……」
 動きかける唇を塞いで、口腔を犯す。唾液の音がした。苦しそうに真沢が眉を寄せて、腕を伸ばし神山の胸板を叩いた。そのわずかな抵抗を、神山は荒い仕草で押さえ込む──真沢の腕を、床に押さえつけた。







戻る サイト 次へ