9


 低いバイブレータの音で目が覚めた。まばたき──見知った油の浮いた天井。窓から差し込んでくる光は朝のものだ。ぼんやりした頭のまま、腕を伸ばしてあたりを探る。指先に固いものが当たる。携帯電話だと分かって、引き寄せ眼前に持ってくる。六時半。……しかしバイブレータは鳴っていない。大体、こんな早い時間にタイマーは入れていない……。
「……なんか、鳴ってる……」
 なんだか、やたらと身体が重かった。ぽい、と自分の携帯をほおりなげる。裸眼で天井を見上げる。滲んで何がなにやらよく分からない。静かな部屋。
 ヴヴヴ、と携帯のバイブがどこかで鳴っている。身体を起こそうとして、身動きが出来ないことに遅れて気がつく。
 ようやく視線をあたりに向ける──至近距離に真沢の顔があって、神山は心臓が止まるほど驚いた。
「ま、真沢?」
 眠っている──ようだ。見れば、しがみつくようにして神山に抱きついて眠っている。服装は大きなカッターシャツ一枚……それだけを羽織っている。白く薄い布地に、真沢の肌が透けて見える。神山は意味もなく、歯をガチガチ言わせて空気を噛んだ。
 ──そういえば、昨日、カッターを貸してやったような気がする。
 そういえば?
 …………そういえば。
 カアッと頬に熱が昇った。昨日のことを思い出す。卑猥な回想が頭を駆け巡る。真沢の……。
 神山は手のひらで額を押さえ、弱弱しいため息をついた。
 ああ、心臓が落ち着かない。
 昨日、真沢としたことを思い出すにつけても、恥ずかしい気持ちが湧き上がってくる。真沢とまさか……したなんて、信じられなかった。今でも夢ではないかと思ってしまう。
 ──ああ、でも。
 神山はそっとしがみついて眠る真沢の顔を見下ろした。白磁の肌、長いまつげ──真沢は、綺麗だ。傷一つない、陶磁器のような肌に指先を添える。慈しむようになでてやると、真沢のまつげが震えた。
「ん……」
 神山は慌てて手を離した。それと入れ違うように、真沢が目を覚ます。
 ぱちぱちとまばたき……ぼんやりとしている。あまり寝起きがよくないようだ。
「真沢……?」
「……ん」
 のろのろと視線をあげる。至近距離で見る、真沢の瞳。裸眼で見た真沢の顔は少しぼやけていた。
「あ……先生……。どうしたんですか……」
 どうしたもこうしたも。……どうやら寝ぼけているらしい。神山はため息混じりに苦笑して、ためらいながらぎこちなく、黒い髪をなでてやった。
「なんでもない。もう少し寝てていいぞ」
「ん……、先生……」
 すりすりと神山の服に頬を寄せて、吐息。満たされているように見えるのは、神山のうぬぼれだろうか。だがそれでもいいと自分を笑って近くに置いてあった黒縁眼鏡を取り上げてかける。
「……あ」
 はっと真沢が身体を起こした。抱きついていた腕を解き、身体を離す。白い頬に少し赤みが差していた。落ち着かないように髪をかきあげて、立ち上がる。
「あ、す、すみません。……抱きつくつもりは、なかったんですけど」
「う、うん? あ、ああ、別に……」
 真沢はわたわたとあたりを見回して、自分の眼鏡を拾い上げた。今さら、神山に抱きついて眠っていたことに羞恥を覚えたらしい。焦ってあたりを見回す真沢の仕草が妙に可愛くて、神山は笑いながら身体を起こした。
「別に気にするな。でかい枕に抱きついていたと思ってればいい」
「そ、それは、そんな……、あ」
 ついで真沢は自分の格好に気がついた。
 神山のカッターシャツ一枚着ただけの、あられもない姿……しかもぶかぶかで襟元などは大きくはだけてしまっている。慌てて胸元を隠してあとずさるその姿に、神山は曖昧に視線をそらした。
 そんな反応をされたら、こちらも照れるしかない。
 薄いカッターシャツの布地に、真沢の肌の色が透けて見える。やけに色っぽい格好だ。
「す、すみません、その。……あの、おはようございます、何か朝ご飯を用意しますのでそこで待っててください!」
「あっ? お、おい、真沢」
 神山が驚くのも他所に、真沢は逃げるようにして台所へ行ってしまった。
 まばたきを繰り返す──逃げていってしまった真沢の後ろ姿を見つめて、神山はがりがりと頭をかいた。なんだか少し……照れていた。


 ※ ※ ※


 数十分後、台所から真沢が盆に皿を載せて現れた。味噌汁の匂いがする。どうやら、本気で朝ご飯を作ったらしい。
 まさか本当に朝ご飯が出てくるとは思っていなかったので、神山は慌ててそこらへんに捨ててあった折りたたみテーブルを出した。
 折りたたみテーブルの上に、二人分の味噌汁と粥が並ぶ。おいしそうな湯気と、香り。この部屋で自炊の香りがしたのは何ヶ月ぶりだろうか。神山はいたく感動してしまって、ぼんやり顔で真沢を見た。
「その、……即席、で味が保証できないんですが……」
 おどおどとした口調で説明する真沢の姿を見て、神山は顔を赤くした。
 カッターシャツ一枚に、エプロン。
 ……エプ……
 男のバカな夢みたいなその光景に、神山は思わず目元を手で覆って隠した。
 ──いかん、これはまずい。
「せ、先生? ご迷惑、でしたか……?」
「い、いや、その、すまん」
 よろよろと箸に手を伸ばし、味噌汁の器を取り上げる。暖かな湯気に、眼鏡のレンズが曇る。味噌の香りがなんとも言えず食欲をそそる。
「う、うまそうだ。じゃあ、そのとりあえず」
 音を立てて味噌汁をすする。身体に染み渡る熱さに、神山は長い至福のため息をついた。うまかった。豆腐を箸でつまみ、口に入れる。なんともいえないうまみが口の中に広がる。
「……うまい」
 さっきまで取り乱していた気持ちが、すっかり落ち着いてしまっていた。
 真沢が安心したような顔をして、はにかむように笑った。
「お口に合ったようで、安心しました。……良かった」
 真沢は神山の前に腰を降ろすと、神山と同じように箸を取って味噌汁に口をつけた。
 神山は味噌汁の椀を置き、粥の入った茶碗を取り上げた。熱そうな白粥を息を吹きかけながら箸ですくって食べる。……やはり、うまかった。
 うまいと認識すると、途端に腹が減ってきた。
 神山はがっつくように、味噌汁と粥を腹に流し込んだ。久しぶりに手料理を食べた。いつも店屋物か、外食で済ませていた神山には、このシンプルな朝ご飯は涙が出るほど嬉しかった。
 何度も何度も「うまい」と繰り返すと、真沢は少し眉を寄せて困った顔をした。平生、あまり感情を顔に表さない真沢だったが、何度も「うまい」と言われて照れてしまったのだろう、珍しく顔をしかめていた。
 粥をかきこみながら、ふと神山は手を止めた。
「そういえば真沢……さっき、電話が鳴ってたぞ」
「電話? ……そうですか……」
 真沢も食事の手を止め、近くに放り出したままの鞄を取り上げ、中を探った。携帯電話を取り出し、開く。しばらく画面を見つめていた真沢だったが、やにわにさっと顔が青くなった。
「……!」
「どうしたんだ?」
 箸を置いて、身を乗り出す──真沢がびくりと身を引こうとした。その仕草に何か感じるものがあって、神山はやや強引に真沢の携帯電話を取り上げた。
「あっ……」
「俺に隠し事はもうやめろ」
 いいながら、画面に目を落とし、神山は息を飲んだ。
 メール着信画面……その開いた文面に、写真が添付されていた。その写真には、神山と真沢の姿が映っている。それも、抱き合った状態で。この背景は、おそらく──あの空き教室だ。
 いつ撮られたのだろう。昨日であることは間違いない。まさか、弓岡が? 湧いた考えに頭を振る。そんなわけがない。メールの文章は簡単に、一文。『学園を辞めろ!』。こんな卑劣な手を使うのは──
「……藤木か……!」
 この写真をばらまれたくなかったら、学園を辞めろという脅しだ。この間の植木鉢といい、弓岡といい、使う手が汚い。
 真沢は青ざめた顔をして、唇を噛んでいた。神山は携帯電話を折りたたむと、テーブルの上に投げ出されていた真沢の手に自分の手を重ねた。真沢ははっとしてこちらを見た。
「変なことを考えるなよ、真沢」
「え……い、いえ、別に……」
 ぎこちなく視線をそらす。神山の手の下で、真沢の手がたじろいだ。それを、強く握り締める。
「昨日の夜、言ったはずだろう?」
「……」
「……藤木と話をつけよう。それが一番いい」
 真沢はうつむき、小さく、本当に小さく、うなずいた。


 ※ ※ ※


 いつものように出勤し、神山と真沢は普段通りの仕事を終えた。
 放課後、呼び出しておいた藤木と会うために、屋上へ向かう──実際、今日一日の仕事は、藤木との話し合いのことでいっぱいで、手元がお留守になりがちだった。
 何はともあれ、五時、生徒達が帰宅する中、神山と真沢は屋上へ向かった。
 屋上……神山はやや複雑な思いで屋上に出た。ここで、神山は藤木の告白を断った。思えば、それがすべての元凶になっていたのだ。
 あの時、神山が藤木を受け入れていたら……
 だが、やはり、受け入れられなかった。
 結果、こんな事態を引き起こしてしまったことに関しては、神山は辛く思っている。真沢も、弓岡も、……自分のせいで、巻き込まれる形になってしまったのだ。
 弓岡は、今日一日、神山に話し掛けてこなかった。あんなことがあった翌日だ。さすがに話すことなどはないだろう。
 屋上に出ると、澄み渡った青空が目の前に広がった。雲ひとつない、突き抜けるような青い空……日の光がまぶしくて神山は目を細めた。
 前方のフェンス前に、いつか見たままの姿で藤木が立っていた。
「……お話があるとか聞きましたけど……何でしょうか?」
 藤木はゆっくり振り返った。あの夜空をバックに振り返るのと同じように、今度は青空をバックに振り返る。しかし、その目はどこか深い色を秘めていた。
「藤木……その、……聞きたいことがある」
 神山は風にはためく白衣の裾を押さえ、空いた手で眼鏡の位置を直した。
 真沢は神山の横で黙っていた。
「聞きたいこと……?」
 吹き抜ける風の強さは、あの夜よりもずっと強かった。その風に顔をしかめたわけではないだろうが、藤木は眉を寄せた。
「僕は先生と話すことなんか、何もありませんけど。……先生でしょう、もう忘れろと言ったのは」
「……ああ、そうだ。だがな」
 神山は白衣のポケットから、例の脅迫文を取り出した。風にあおられ折れ曲がるそれを、藤木に見せつける。
「これを出したのは、……おまえじゃないのか?」
 藤木の顔は変わらなかった。顔色も、表情も変えない。軽く嘲笑うように──今まで神山に見せてきた仕草とは全く違う仕草で、腕を組んだ。
「なんですか、それは?」
「……脅迫文だ。おまえが真沢…先生に書いたものじゃないのか?」
 「脅迫文? ……真沢先生に?」空とぼけて、藤木は肩をすくめた。「何の話ですか、それは?」
 しらばっくれる生徒に、神山は歯噛みした。言い逃れできると思っているのか。それとも、大した事をしていないと思っているのか。余裕の態度だ。自分の立場は、絶対に揺るがないという自信の表れ。
「しらばっくれるんじゃない。真沢先生から、すべて話は聞いたんだぞ。おまえがやってきたこと、……真沢先生にさせてきたこと。それでも、おまえはまだとぼける気なのか?」
 言っていて、腹が立ってきた。藤木への怒りだけでなく、こんな事態を招いてしまった自分の不甲斐なさにも怒りを感じる。
 もっと、自分がちゃんと藤木とのことに対応していれば。あのとき、快楽に負けさえしなければ……。
「……先生。あいにくですけれど、僕には何の話かさっぱり……。何か勘違いなさっているんじゃないですか。それとも、真沢先生が勘違いなされているとか」
「そんなことはありません! 私は嘘などついてないし、勘違いもしていない! 確かに私は……!」
 真沢が珍しく動揺して声を張り上げた。必死の形相で、言い募る。だが、それに反して、藤木はため息をついて笑った。大人びた所作で、髪をかきあげる。
「──ええ。確かに僕はまあ、真沢先生が言うようなことをさせましたし、命令もしましたね。だが、そんなことはもう無意味になった。神山先生は、僕なんかどうでもいいとおっしゃいましたから。今さら、無様にすがって何になるっていうんです? 僕はプライドが高いんです。無駄だと分かったものを求めるほど、落ちぶれてはいません」
 藤木は吹き抜けていく強い風に、前髪を押さえ険しい顔をした。
「勘違いなさらないでいただきたいものです。僕は誇り高い。いつまでも同じところに留まりはしない。……大体、その脅迫文、何を書いているんですか?」
「──真沢先生に、学園を辞めろと」
 神山の硬い声に、藤木は大げさに両手を広げて呆れた。
「学園を辞めろ? ……何故、僕が脅迫文を出すようなそんなみじめなことをしなくちゃならないんですか。そんな脅迫文を出すのは、無力な者がすることです。僕なら、そんな脅迫文を出して真沢先生を脅すなんて必要はない。辞めさせたかったら、すぐに辞めさせることのできる力がある」
 藤木の説明に、神山は息を飲んだ。
 ──良く考えれば、そうだ。
 こんな脅迫文を出さなくても、藤木は簡単に真沢を辞めさせることができるはずだ。
 真沢もそれに気がついたのか、先ほどとは打って変わった、力のない口調で言った。
「じゃあ、あの空き教室……あそこへ来いと呼び出した紙。……あれには」
「ええ、あれは僕ですよ。名前を書いてあったでしょう。だから、真沢先生は逆らわず、あの教室に来た。効果はてき面でしたね」
 藤木は全く悪びれず、容疑を認めた。しかし、やはり脅迫文については否認した。
「ですが、その脅迫文……ですか。それは僕ではありません。僕はそんなもの出す必要はありません。──大体、僕はそんなつまらないことをする人間ではありません。愚かすぎます」
「じゃあ、一体、誰が……」
 ──いや、そもそも、藤木はどうしてあの空き教室に真沢を呼び出した? そこでどうして弓岡が待っていた?
 藤木は、何を考えて──そういえば、あの神山の携帯に入ったメールは、一体誰が?
 そのとき、階段室の扉が音を立てて開いた。
「んー、そいつにはちょっとピースが足りないかなぁ〜? 神山ちゃんの持ってる情報ではねぇ」
 軽いノリの声──誰の声か、一瞬でわかった。神山は思わず緊張して、振り返る。
 そこには、やはり、弓岡が立っていた。頬に大きな湿布。神山が殴った痕だ。
「ゆ、弓岡……」
 弓岡は肩をすくめて、階段室から、一人の男子生徒を引き出してきた。腕をがっちりつかんで、連行されるように姿を現したその生徒は──神山の見覚えがある生徒だった。
 確か、あの文化祭……使っていない教室で藤木と相対したとき。彼の両脇を固めていた一人ではないか。茶色の髪の、背の高い──
「倉……?」
 藤木が怪訝そうな顔をした。
 どうやら、彼の名は倉というらしい。神山には初耳だ。真沢をちらりと見たが、真沢も初耳──いや、初対面らしく、不明なものを見るような顔をしている。
「……た、巽様」
 倉は藤木の姿を見て、取り乱した。
 巽、様……? 藤木のことのようだ。しかしそのあまりに違和感のある呼び方に、神山は眉をひそめた。
 倉は藤木のもとへ走り寄ろうとしたが、弓岡にがっちりと腕をつかまれていてうまくいかず、悔しげな顔をした。
「倉、どういうことだ。……何故、こんなところに」
「た、巽様、それは……」
 藤木の問いに、倉は狼狽した。しどろもどろになって答えようとする彼を、弓岡が遮った。
「ま、ちょっとおかしいと思ったんだよね。彼、藤木の後ろでこそこそしてたから、どうもね。ほら、よく言うじゃない。ファンタジーもので大臣が悪者っていうのは。どうも不審だから、いろいろ調べてみたら、まあ、やってるわやってるわ」
「ど、どういうことなんだ? 彼が、何をしてたって……?」
 神山が話の先を促すと、弓岡は髪をかきあげて言った。
「簡単に言うと、真沢先生にいろいろ嫌がらせしてたのはこいつってわけ。ま、俺は調べただけで、実際どんな被害があったのかはちょい分からないんだけど? 何か脅迫文とか、植木鉢とか。その他もっといろいろやってたみたいだけど。ねえ、倉君?」
 あの嫌がらせは、藤木ではなかった。
 神山は驚きに言葉もなかった。藤木ではなく、その傍にいた倉が犯人だったとは──全く思いも寄らなかった。神山などは倉の名など知らなかったし、おそらく、あのとき顔を見ていなければ、誰か分からなかったに違いない。
「どういうことなんだ、倉。……僕に黙って、何をしていた?」
 厳しい藤木の問いかけに、倉はびくりと身体を硬直させた。
「そ、それは、その、巽様。お、俺は、……その」
「弓岡先生の言っていることは本当なのか。真沢先生に脅迫文を送り、嫌がらせをしたのか」
「た、巽様……」
 畳み掛けるような藤木の詰問に、倉は震え上がった。険しいを通り越して険悪な顔をしている藤木は、誰がどう見ても倉のしたことに腹を立てているように見えた。なまじ顔が整っているだけ、怒りの迫力は鬼気迫るものがある。
「答えろ、倉! 脅迫文を送ったのは、おまえなのか!」
「た、巽様、俺は巽様のことを思ってやっただけです!」
 叫んだ倉の答えは、藤木の問いにうなずいていた。
 犯人は、やはり倉だった。藤木の眉がぎりっとつりあがった。
 
「僕のためだと……!? 僕がいつ、そんなことを望んだ。おまえのおかげで、僕は疑われたんだ。おまえは僕の顔に泥を塗るつもりか!」
「そ、そんな……! そういうつもりは、……巽様。お、俺は……! 俺は、巽様のことを思えばこそ…」
 言いすがり、訴える。倉が必死になっているのは、無実を晴らすことではなく、藤木の怒りを静めるためだった。藤木の怒りを恐れ、藤木の不興を買うことを恐れている。
 ──歪んでいた。
 藤木は不快そうに顔をしかめ、倉を冷たく見つめた。
「僕を思えばこそ? ふん、所詮、藤木の家の権力に媚びへつらっているだけだろう」
「そ、そんな。違います。巽様……、俺は藤木家を尊敬しているわけではありません! 巽様を尊敬しているんです! だから!」
 藤木の顔が更に歪んだ。不快だけでなく、倉の言うことにうそ寒いものを感じたらしく、眉間に皺を寄せた。
 屋上の風が一層激しく鳴った。
「巽様が神山に心を傾けたのは、俺も納得いきませんでした。けど、俺は巽様が幸せになるならと……我慢して巽様を見守ることにしました。それが俺のできることだと思ったからです。……けれど、この男は……!」
 倉に忌々しそうににらみつけられ、神山は唾を飲み込んだ。冷や汗が出ていた。
「この男は、巽様を袖に……! そればかりか、巽様を袖にしておいて、この真沢と……!」
 神山は動揺して目を見開いた。真沢も同じだったらしく、かすかに息を飲んでたじろいだ。
「巽様を傷つけ、ないがしろにする奴は許さない。だから、真沢さえいなくなれば……巽様はきっと」
 もうそれ以上聞かなくても真相は明らかだった。倉は、藤木を振った形の神山を恨み、真沢を恨み、そして邪魔な真沢を排除しようとした。
 ──あまりに子どもじみた思考回路だ。
 高校生にもなって、振るう弁ではない。その子どもじみた弁の庇護するところにされた藤木は吐き捨てるように倉を短く罵った。
「消えろ」
「え……?」
 呆然とする倉。……何を言われたのか理解できない、といった顔だった。自分がしたことの是非が分かっていないのかもしれない。全部藤木のためだと言っておきながら、その責任を藤木に押し付けてしまっているのだ。藤木のためだから、藤木のために、それで──自分は、悪くない。
「消えろと言ってるんだ! おまえの顔なんか、見たくない!」
 倉の顔から、血の気が引いた。そして、ゆっくりと──怒りの表情が浮かんでくる。
「ど、どうしてですか。……俺は、あなたのためを思って。……それなのに。それなのに」
 倉が、弓岡の手を振り解いた。不意をつかれて、弓岡はその手を離してしまう。そして、一瞬の間で制服のポケットに手を突っ込むと、そこから折りたたみのナイフを取り出した。
「俺は、悪くない……、悪いのは、周りなんだ!」
 刃を閃かせ、走り出す。標的は──
 神山は、咄嗟に真沢の前へ飛び出した。
「よせ、倉!」
 制止の声空しく、神山の右腹部に熱い痛みが走った。瞬時にして、足元がふらついた。カラン、と乾いた音。血のついたナイフが転がっていた。腹に手をやると、手のひらをじっとりと何かが濡らした。暖かいもの……血だ。
「あ……」
 倉がゆっくりあとずさった。人を刺してしまった感触に、我に返ったのだろう。
 脂汗が、額に滲んだ。しかし、たぶん傷は深くない。傷口にあてた手のひらに滲む感触で分かる。出血は少ない。
 たぶん、倉も本気で刺すつもりはなかったのだ。
「せ、先生……」
 怯えてこちらを見つめる生徒の頭に、手を乗せる。がしがし、と彼の髪をかきまわしてやる。
 やってしまったことへの怯えに、生徒は身を震わせた。
 神山はこわばりそうになる顔を無理やり緩ませて、笑ってやった。
「だ、大丈夫、……大丈夫だ、倉。刺す気はなかったんだな? そうだな? 俺は、頑丈だから大丈夫だぞ。平気だ。……だから、やけは起こすなよ……」
「せ、先生、」
 足元が揺らいだ。目の前が暗くなる。……出血は少ないはずだ。なのに、身体が冷えていく。
 ひどい眩暈を覚えて、神山はよろめいた。傷口に手を添えたまま、そのまま、その場に膝を折る。
「神山先生!」
 誰かが肩を支えた。耳元で真沢の声。視界をこらして見上げたが、逆光のせいなのかよく見えなかった。
 だが、神山は何度もうなずいた。
「大丈夫、……自分で刺しただけだ……」
 それだけ呟くと、神山は意識を途切れさせた。






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