※ ※ ※

「……すみませんでした」
 俺は冷たい水を注いだコップを、テーブルに置きました。
 深夜一時。リビングの壁掛け時計を確認すると、一時十七分を指しています。
 静かな夜です。
 時計の秒針が動く音しか聞こえません。
 土屋さんは椅子に座り、黙っています。
 俺も黙りました。
 張りつめた何かがありました。
 ……そう感じていたのは、俺だけかもしれません。
 でも、
 土屋さんが口を開くのが、とても怖かったのです。
 俺は、寒くもないのに、自分で自分の肩をさすりました。
 この肩……この手のひら、前髪。
 土屋さんが触れた場所。
 その場所が、全力で俺を嫌っているみたいに思えました。
 ……あんな夢を見たすぐ後だから。

 あんな夢。
 ……あんな現実。

 身体の芯がじわじわと冷えていくようです。
 思い出したくない。
 覚えてたくない。
 忘れてしまいたい……。

「……浩之」
 名前を呼ばれて、俺はびくりとしました。
 無意識に半歩、あとずさります。
「おまえ、もしかして、前の会社で」
「違います」
 ピンと空気が張り詰めます。
 嫌な間ができました。
 土屋さんが、さっきよりゆっくりした、穏やかな声で続けます。
「誰かに相談してないんか」
「何の話か分かりません」
「わからんってことはないやろ。それがもし、ほんまやったら」
「何の話か分からないし、聞きたくありません。本当も嘘もないです。だから相談なんて、何のことだか」
 知らない。俺は何も知らない。
 さっきのは夢だ。だから、何も知らないし、……認めたくない。
 手のひらを握り締めました。
 この手を、土屋さんが握った──
「あのな、浩之。よう聞くんや」
 握り締めた手を、土屋さんがまた握ろうとするので。
 俺は咄嗟に、その手を払いました。
 土屋さんが真意を問うような目をします。
 俺は顔を背けます。


「……ようわかった」


 静かな、静かな声がしました。
 はっとして顔をあげましたが、俺は遅すぎました。
 土屋さんは、椅子から立ち上がり、そのまま黙ってリビングを出て行こうとしています。

「あ、」

 何か、何か言わなくては。
 でも、何を言えばいいのか分かりません。
 俺の声は聞こえているはずなのに、土屋さんは立ち止まりませんでした。まるで、俺の声なんか聞こえていないみたいに。
 指先が、冷たくなりました。
 口の中が乾いて、視界が揺らぎます。

 ああ、 ああだめだ。
 泣く。
 泣いてしまう。

 俺は反射的に、自分の喉に手をやりました。

 絶対に、泣いたりしたくない。
 泣くのは間違ってる。

「な──なんで、……なんで、俺なんかにかまうんですか。俺なんか、全然、関係ない赤の他人でしょ。こんな、二十歳もすぎた、死んだほうがいいクズニート、なんでかまうの? 意味わかんない、わけわかんない!」
 声が震えて無様なのに、とめることが出来ませんでした。
 土屋さんは、ぴたりと足を止めました。
 言い返されると思ったら、土屋さんは俺の顔を見たまま、沈黙しています。
 その表情は、何を思っているのかよくわかりません。
 俺は、初めて、この人がこわい、と思いました。
 大人の男とは、こんなに──こんなに──

 かなわないものだったなんて。

 土屋さんが、興味がなくなったみたいに俺から顔を背けました。
 ずきり、とどこかが痛みます。
 自分がバカだと感じました。今更、痛みなんか感じる器官が残っていたということが。
 俺みたいなクズ、死ねばいい──

 土屋さんが、リビングを出て行く扉を開けました。
 扉に添えられた左手の薬指。

 耐えることができませんでした。

「俺なんかにかまうぐらいなら、自分の家庭、かまえばいいんじゃないんですか」


 そう言ったのに。

 土屋さんは、俺の言葉なんか聞かずに、リビングを出て行きました。
 バタン、という音をきいて、リビングの扉、こんなに大きな音たてるんだな、なんて。







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