※ ※ ※

 ──なんで、俺なんかにかまうんですか。俺なんか、全然、関係ない赤の他人でしょ。


 そうやな。
 全然関係あらへんな。


 残業を済ませて、帰宅。
 時刻は、日付が変わるちょっと前。
 シャワーを浴びるのもだるい。メシも面倒くさい。何もかも面倒くさい。
 こんな時間では、子どもたちはもう寝ているのだろう。その母親も、もう寝ているようだった。
 海より深いため息をつきながら、寝室へよたよたと向かう。
 ネクタイを緩めながら、土屋は朝起きたままのシーツの乱れたベッドに身を投げた。
 仰向けになって、額に手を当てて、盛大なため息。
 あれから頭の中を占拠しているのは、浩之の顔と言葉。
「俺にどないせえっちゅうんじゃ……」
 ぼやきのつもりで言った言葉は、思った以上に深刻そうに寝室に響いた。
 なんだか嫌な気分になって、土屋は寝返りを打った。
 ひんやりとしたシーツの感触が心地いい。それなのに、気分はあまりよくなかった。

 職場の部下の相談を受けた。
 一人息子が立派な引きこもりになってしまって、どうしようかと思っている。男の子だから母親にも言えないことがあるのだろうか、と憂鬱そうだった。
 じゃあ、ちょっと自分が様子を見てみようと請合った。そこまではよかった。
 そこには、何の思惑もなかったし、むしろ、部下──静江の息子に興味があった。
 彼女ときたら、自分のデスクに飾ってある息子の写真を持ち出してきては、自慢の息子なのよ、と自慢してまわるものだから。確かに写真の「自慢の息子」は、利発そうな顔をしていた。一部の女性社員は、男前だと随分はしゃいでいた気がする。
 ただ、土屋からすれば、なんだか綺麗な顔立ちすぎて、ひ弱そうだな、という印象を受けた。引きこもりと聞いていたからかもしれないが。
 単なる甘えで、引きこもりなのではないか。そう思ってもいた。

 そこまで、その時点までは、間違っていなかったはずなのだ。
 全然、間違っていなかった。
 自分があのひ弱そうな男と顔をあわせたって、彼の現状が変わるとも思ってなかった。自分のほうにも、何が何でも彼を更生させようという気持ちはなかった。……これを静江が聞いたら、とてもがっかりするだろうが。
 そもそも、土屋はカウンセラーでもなんでもない。単に、引きこもりの息子をちょっと見てみたいという気持ちしかなかったのだ。
 間違いがあったとすれば、多分、そこの部分だろう。ちょっと気が向いたからといって、踏み込んだのが間違いだった。

 間違い。
 そうや、間違いなんや。

 土屋は、シーツを握った。
 浩之が、窓に粘土を詰めたからいけなかった。布団の引き剥がしをしたのがいけなかった。浩之の眼鏡が壊れていたのがいけなかった。
 何もかもがいけなかった。

 初見は、髪も伸び放題で頬はこけているし、ひどい格好だと思った。写真を見て、男前だとはしゃいでいた女性社員にはご愁傷様だとも思った。これでは詐欺もええところやないかとも思った。

 それなのに。
 それなのに。

 あの日触れた、傷んだ髪、汗ばんだ額、震えていた体。
 忘れたい。
 忘れてしまいたい。

 繊細そうな視線、物思いするときの、かすかに漂う廃退的な艶やかさ。薄い唇の、わずかな色づき。
 眼鏡のフレームに隠れてしまう、あどけなさ。
「っ……」
 いらだたしくなって、土屋はベッドを思い切り叩いた。

 ……許せない。
 浩之に巣食っているもの。確かに巣食っているのだ。だから、浩之は死にたいという。
 その原因が分かったのに、自分には何もできない。

 そればかりか、浩之は、自分を拒絶した。

 いらない。
 いらないのだと、言った。

 そうなのだろう。
 最初から、土屋のことはいらなかったのだ。

 思い返せば、浩之はいつも迷惑そうだったじゃないか。
 そこを、一方的に踏み荒らしたのは自分だ。
 それでいて勝手に──受け入れてくれているのだろうと思っていた。


 ──なんで、俺なんかにかまうんですか。俺なんか、全然、関係ない赤の他人でしょ。


 その言葉で、全部勘違いだと気づかされた。
 なんて、傲慢な大人。
 だから何も言えなかった。浩之自身から突きつけられた現実に、何も言えなかった。
 あの日、リビングを出てから、自分はバカなのだと気づいた。

 それから、

 浩之が受け入れていないのにも関わらず、大人の無神経さで距離を詰めようとした自分は、一体なんなのだろうと思った。


 距離を詰めれば、何かが変わると思ったのか。
 浩之が更生すると思っていたのか。そんな真面目なことを思っていたのか。

 ……そうやない。

 距離……詰めれば、浩之が笑ってくれると思ったのだ。
 浩之が笑えば、どんなにかいいだろうと思った。
 たったそれだけの幼稚な動機しかなかった気がする。
 自分より十ほども年下の男に、抱く思いなんて、それぐらいしかない。
 それぐらいしか、ない。それ以外、ない。

 土屋は、ごろりと、再び仰向けになった。
 薄ら暗い天井が見える。
 ……そういえば、電気もつけていない。
 険しい顔で天井を見つめる。天井は非情だから。


 どうして、自分はこんなにも浩之にこだわって、それを引きずっているのだろう。



 ……この歳で。

 ※ ※ ※

 どこかで、低い振動音がする。
 何となく、その音に目が覚めた。

 目が覚めた……ああ、眠っていたのか。
 土屋は、遅れて気がつき、まばたきを二度、三度した。
 それから、手をついて、体を起こす。
 相変わらず、振動音がする。
 携帯だ。
 視線をめぐらせると、寝室の入り口近くに、鞄が落ちていた。
 携帯は、確か鞄の中に入れっぱなしだ。
「……面倒くさ」
 しわがれ声でぼやきながら、もそもそとベッドから降りる。
 這うようにして、鞄まで近づき、手を伸ばして引き寄せる。
 適当に手を突っ込んで、携帯を探して取り出した。
 こんなに長々と振動しているのだから、これは着信だろう。
 ろくろく液晶画面を確認せずに、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
 あくびをかみ殺しながら携帯を耳に押し当てていた土屋は、聞こえて来た声に思わず息を詰まらせた。

『土…屋さん? どうしよう、どうしよう、浩之が』

 静江の声。浩之の名前。
 電話口の静江は、かなり取り乱しているようだった。
『浩之が、どうしよう……』
 途端に目が冴えてきた。
 これは尋常な事態ではない。静江の声をよく聞き取ろうと、携帯を耳に強く押し当てた。
「静江さん? どないしたんや、落ち着いて」
『止めようとしたのよ、だって、表情が、今までになかったの、お願い待ちなさいって言ったのに、私の声聞こえてなくて、どうしよう……あの子、あの子』
「落ち着け言うとるやろ! 今どこから掛けてん? 家か」
 電話口で静江が涙声になっている。
 土屋は携帯を耳に押し当てたまま、寝室を出た。廊下を足早に急ぎ、玄関先の靴箱の上にある車のキーをとる。キーをとるとき、その隣にあるデジタル時計が目に入った。時刻は、二時三十五分。
『浩之が……、浩之がお風呂場に閉じこもったまま出てこないの……! 声かけても返事が……、あの子、また』
「今から行く。待っとれ!」
 それだけ短く伝えると、土屋は通話を切って携帯電話はポケットに押し込んだ。







サイト 次へ
作品が気に入られましたらクリックしていただけるとうれしいです→