「っ……、……」
 細く息を吐くと、手をついっと引かれました。
 それまで撫でていた手首に、指とは違う感触が触れました。
 小さく驚いて、顔をあげます。
「……あ、」
 土屋さんの唇。
 傷だらけの汚い手首に、キスをする──
 ……少し痛い。
 土屋さんの唇がカサカサだから。

 俺の小さな声に、土屋さんがハッとした顔になって唇を離しました。
 自分のやったことに驚いている様子でした。
 土屋さんは、気まずいように俺から目をそらします。
 俺は、諦めたような気持ちになって、安心したような気持ちになって、腕を引こうとしました。

 その腕を、さらに強く、引かれました。

 抱き寄せられたのだと、思います。
 気がついたら、土屋さんの肩越しに開きっぱなしのガラス戸を見つめていました。
 遅れて伝わってくる暖かい体温。
 背中のほうから伝わってくる体温──手のひら、回された腕。
 土屋さんの呼吸が乱れて、更に強く、ぎゅっとされました。

 あ


 だめだ



 視界、歪んで。



 俺は泣きました。
 泣きながら、頭を振りました。

 うれしいのではありません、満たされているのではありません。
 だって、俺は。

 だって、俺は、こんなふうに優しくされても。


 この人で、キモチワルイことをしたから。
 こんなふうに優しくされる資格なんかどこにもない、盛りのついた汚らわしいクズだから。


 俺は土屋さんを突き放そうと、その厚い胸板に手をつきました。
 何度か、身体を引き剥がそうともがきました。

 やめてください。
 やめてください。
 こんなことはやめてください。

 動揺するように、土屋さんの呼吸が揺れます。
 わずかに、腕の力が緩みました。
 それを感じて、きつめに土屋さんの身体を押しやろうとしたら、急激に強く、抱きしめ返されました。
「……許さへん」
 耳元で、低い、深みのある声。
 嫌なのに、心のどこかが跳ね上がります。
 俺は震える手で、土屋さんの身体を押しやろうとして、できませんでした。
 嫌だ嫌だと頭を振って、土屋さんを叩きます。
「嫌だ、やめて、もう嫌だ、嫌だあ……」
 叩いても叩いても、土屋さんの力が緩まないから。
 俺は我慢できなくなって、泣きわめきました。
「俺なんか死ねばいいのに、生きてる価値なんかないのに、なんでこんなことするの……! 俺、キモチワルイの、嫌だったけどあんなキモチワルイことできるんだったら、本当は悦んでたんじゃないかって! 夕焼けに死にたくなるけど、俺は元々、キモチワルイクズなんだから、気持ち悪いことのはずなのに、好き勝手汚して、気持ちよかったんだ……キモチワル……っぐ!」
 一瞬、何が起こったのか理解できませんでした。
 視界一杯に、土屋さんの顔。
 まばたきをしたら、土屋さんの唇が俺の唇から少し離れました。
 一瞬、目が合って、吐息を感じたと思ったら、今度は性急に唇を奪われました。

「ん、っん……、っちゅ……」

 何か言うことは許さない、というように舌がからめとられます。
 どうして、とか、何故とか、そんな疑問は消し飛ぶほどの。
 せつな的な気持ちになって、俺は土屋さんの背中に手のひらを添えて、シャツを握り締めました。

「浩之……、浩之……?」

 キスの合間合間に、かすれた声で名前を呼ばれます。
 ぞくぞくして、なぜか涙がにじみました。心のどこかが、痛くて痛くて仕方ありません。
 土屋さんの大きな手のひらが、髪を撫でます。包み込むようにして、耳の後ろから後頭部を支えて、激しいキスを。
 唇の端、それから、頬。冷たくなっていた頬を、唇でなぞるようにして。

「もうええ。……もうええんや。そんなん、もうええ……」
「……なんで、」
「おまえ泣くと、どうしたらええんか分からん……」

 頬を寄せるように、鼻先を摺り寄せられて、眼鏡のフレームが歪みます。

 ああ、違う、歪んでいるのは、
 俺が泣いているからだ。

「おまえに何があったんかは、俺もよう知らん。……話したない言うんやったら、それでええ。……それでええいうことに俺は今決めた」
 ちゅ、と土屋さんは、黒縁眼鏡のフレームに口づけました。
「そやけど、己のこときもちわるい言うんは許さん。絶対に許さん。……己がきもちわるいクズや言うんなら、そのクズにこうしてる俺はクズ以下か?」
「……そんなこと、でも俺、」
 俺は視線をそらしました。
 土屋さんはクズではないです。
 クズではないけど、俺はやっぱりクズなんです。
 土屋さんは、俺がどんなにクズか知らないだけだ。

 俺は、眉を寄せて、それから、投げやりな気持ちになりました。

 俺は、どうしようもない、クズなんだ。

 投げやりな気持ちになったら、少し笑いが出ました。


「……俺、だって、土屋さん使って、オナりましたよ。クズですよ」


 ああ、もうどうでもいいや。
 どうでもいい。
 早く、……早くこの背中に回した腕を解いてほしい。

 一瞬、土屋さんの腕の力が緩みました。

 ああ、これで全部終わった。
 俺の人生も終わった。
 ややしていきなり。
 冷たいシャワーが降り注いできました。
「っ!?」
 これには驚いて、言葉も出ません。
 問うように土屋さんを見上げたら、土屋さんの顔を確認できる前に耳たぶに口づけされました。
 土屋さんの短い髪の毛が、頬をくすぐります。

 ざあざあ。
 ざあざあ。

 シャワーの水が、額から伝い落ち、胸元にまで滑り込んできます。
 眼鏡のレンズには水滴が飛び、目に水が入ってまばたきがうまくできません。

 耳元でかすかな吐息。
 ぞくりと身体が震えました。

「そないなことは、言うもんやないなあ」
「っ……」
 悪戯を仕掛けるみたいに、土屋さんが俺の耳を軽く食みます。
 シャワーの音の中で、土屋さんのかすかな笑い声。
 俺の決死の告白を、適当に流されたようでもどかしい気持ちになりました。
 本当に、本当に俺は。嘘なんかじゃなく。
「頭冷やさなあかんな……」
 土屋さんはそう言いながら、俺を後ろ向きに抱きしめました。

 だから、人の話を、

 俺はむずがるようにして、土屋さんを振り払おうとしました。
 振り払おうとすればするほど、土屋さんはぎゅうぎゅうと力を込めて抱きしめてきます。
「あんまり年上からかうんよくないで。俺だって困る」
「だから、からかっているとか、」
 人の話を聞きなさいよ、このおっさん。
 俺はがっつりあなたでオナったきもちわるいクズなんですよ。
 上司にヤられるの嫌とか思いながら、がっつりあなたで抜いたクズなんですよ。

 はぁ、と大きなため息が聞こえてきました。
 しゃあないなあ、というつぶやきも聞こえた気がします。

 いきなり、グッと抱き寄せられました。
 何してんだ。暴れようとしたら、押し付けられたものに気がついて、混乱しました。

 だって、それは。
 これは。

 かっと頬が熱くなりました。

「……、……」

 言葉にならないとはまさにこのこと。
 何も言えずに、うつむきます。
 耳が熱くて、頬が熱くて、どうにかなりそう……

 ああ、シャワーがあってよかった。
 この冷たい水で、爆発するのを何とかさけられたような気がします。
 ああ──そうか。
 頭冷やすってこういうこと……。

「よう分かったか」

 ……俺は、小さくこくりとうなずきました。

 だってこれ、だってこれ、恥ずかしくて死にそうなんですよ。
 今度は別の意味で離してくださいよ。
 だって、背中に当たってるのが、こう、何……。

「……別に、俺で抜いてもええねんで?」

 後ろから、低くて優しい声。
 破廉恥な声。

 心臓が喉から出てしまいそうだ。


 本当、



 本当、なんなんですか、このおっさん。







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