※ ※ ※
お風呂場から出たら、泣き顔の母さんにものすごく怒られました。
バカとか、アホとか、信じられないとか、いろいろ言われましたが、最後に抱きしめられて、わんわん泣かれました。
ごめんなさい。
本当にごめんなさい。
その後も、バカとかアホとか言われながら、着替えを済まして、ごはんを食べました。
数日振りのごはんは、とてもおいしかったです。
おいしいと言うと、母さんはまたバカとかアホとか言いました。
母さんは、バカとかアホとか言いながら、土屋さんにすすめられて寝室に戻っていきました。
時計を確認すると、五時でした。もう朝です。
休んだほうがいいという言葉に素直に従って、俺は自室に戻って、ベッドに入りました。
お風呂場で大暴れしたせいか、確かに少し疲れていました。
疲れたという感覚も、随分と久しぶりのような気がしました。ここのところずっと床眺めてたり天井見てたり、床に落ちてるゴミに話しかけたりしていただけでしたから。
「静江さんはもう大丈夫やろ。浩之、おまえもちょっと寝たほうがええな」
土屋さんが、ベッドの脇に座って、俺の顔をのぞき込みます。
なんだかとても気恥ずかしかったので、俺は視線をそらして、眼鏡をはずしました。
はずした眼鏡を、枕元に置いてから、改めて枕に頭を沈めます。
土屋さんは少し笑って、俺を見下ろしています。
孫を見守るおっさんみたいな表情です。
なんだか落ち着きません。男前な顔をしているのに、そんな優しげな顔をするせいに違いありません。
この人、前から空気読まない人でしたけど。
……おっさんのくせに。卑怯だ。
…………。
……あの、そうやって見られるとすごく、恥ずかしいんですけど。
ちょっと泣いたんで、目の辺りとかえぐいことになってる感がバリバリします。今だって、まばたきに違和感が。
二十歳越えでわんわん泣くとか、情けないを通り越して、墓に埋まりたい。マジ墓堀り案内人だよ。イミフだよ。分かってるよ。
「浩之」
脳みそに響く低い声で呼ばれて、どきりとしました。
顔も卑怯だけど、声も卑怯だ。何回聞いても、卑怯で困る。
俺はちらりと土屋さんを見上げて、視線をそらしました。そらしながら、もう一度、横目で見てから、またそらします。
土屋さんは眉を寄せて、少し面食らったような顔をしました。
「なんで目をそらす」
うっさいなー。
恥ずかしいからって言ってんじゃん。……あ、言ってなかったっけ。
おっさん、分かれよ。本当おっさんだな!
さっきのお風呂場のこととか、思い出さないんですか、この人は。
俺は、なんか死にそうな気分になったので、土屋さんから顔を背けました。
しばらくの沈黙。
不意に、ベッドが軋んで、沈みます。
驚いて振り向くと、土屋さんが覆いかぶさるようにして、俺の顔を覗き込んでいました。
土屋さんの顔が、鼻先のすぐ近くにあります。
「俺はおまえの名前呼んどるんやけどな?」
土屋さんは囁き声で言って、俺の頬を両手で包み込みました。
その手は硬くてごつごつしていて、俺は少し混乱しました。
……これでは、顔を背けたくても背けられません。
だから俺は、蚊の鳴くような声で言い返しました。
「……聞こえてますよ……」
間近に迫る土屋さんの顔のどこを見ていたらいいのか分かりません。
目なんかは、到底、見つめられないし。
本当にこの人、距離なしで、おっさんで、関西弁で、えっと、それから、
……無精ひげで……八重歯で……
本当に……
本当、なんで、こんな人、好きになったんだろう、俺。
趣味悪い。頭おかしい。正直、ちょっと立ち止まって考え直してくれればよかったのに、俺。
「聞こえてんのに、返事してくれへんのか? ん?」
「聞こえてるから返事したくないです」
「……なんやそれ」
ハハ、と土屋さんは笑いました。
笑いながら、前髪をそっと撫で付けてくれました。
俺、子どもじゃないんですよ、と言おうとしたのすら、押しとどめるように。
額に触れるだけのキス。
「ちょっと休んだほうがええ」
うん、とか分かったとか、言えるわけがありません。
これはもう、完全な意地悪です。からかって、反応を見て楽しんでいるとしか思えません。
誰がこんな手にひっかか
土屋さんは額に何度もキスをして、まぶたの上にもキスをします。
……だから、いい加減やめてくださいよ。
なんでこうキス魔なんですか。おっさんだからですか。キス魔おっさんとかどうなんですか。どうかと思いますよ。流行らないし。というかおっさんくさいし……
あ、
あ、でも、土屋さん……
「ん、どうした」
「唇……荒れてるなって思っただけです」
「おっさんやからなあ」
「意味わからないですよ」
「おまえが舐めてくれれば治る」
「…………」
バカですか。マジでバカですか。頭湧いてんじゃないんですかああ本当バカじゃないのバカやめろよ何考えてんだバカじゃないですか頭おかしい。マジでおかしいこの人おかしいよ母さん……
「真っ赤になっとるな」
「なってません」
土屋さんは笑って、俺の髪を撫でました。
「もう寝。横についとったる」
「……横に……って、」
「一日ぐらい仕事休んだってどうってことあらへん」
俺は何も言えなくて黙り込みました。
土屋さんは身体を起こし、ベッドの端に座ると、俺の布団をかけなおしてくれました。
「おやすみ、浩之」
「…………」
「おやすみは?」
「……なんで言わないといけないんですか」
「んー、おまえの声聞きたいからやなあ」
「……バカじゃないですか」
俺は寝返りをうって、土屋さんに背を向けました。
ハハ、と土屋さんの小さな笑い。
「それでええ」
ちゅ、と後頭部にキスひとつ。
なでなでとされて、俺は目を閉じました。
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