※ ※ ※

 何かのにおいをかいで、目が覚めました。
 すんすん、と鼻を鳴らしてにおいを確かめます。……なんだろう、このにおい。
「……土屋さん?」
 呼びかけてみましたが、返事がありません。
 頭をめぐらせて部屋を見回してみると、土屋さんの姿がありません。

 ああ、仕事に行ったのか……。
 横についてるなんて言っていましたが、たかが二十歳過ぎの男についてる義理などありません。
 俺が眠ったのを見計らって出て行ったのでしょう。

 ああ、まあ、そうですよね。

 そのとおりですよね。

 二十歳も過ぎて甘ったれた根性だから、こんなクズになってしまったんでした。


 ため息をついて、体を起こします。
 よく眠った感じがしました。目覚めはさほど悪くはありません。
 枕もとの眼鏡をかけて、あくびをします。
 壁掛け時計を見ると、十二時半を指していました。窓から差し込む光は明るく、外はよく晴れているようです。
 外の天気を気にしたのはどれぐらいぶりでしょうか。……なんだかずっと、曇っていたような、雨が降っていたような覚えがあります。

 それにしても……
 このにおいは……?

 嫌なにおいではありません。むしろ、昔よくかいだようなにおいです。

 俺はベッドから降りて、自室を出ました。
 自室を出て、リビングに近づくごとに、においがきつくなっていきます。

 ああ、このにおい。
 このにおい、揚げ物のにおいだ……?

 リビングの扉を開けると、油のはねる音が聞こえてきました。


 ……母さん?


 首を伸ばして、キッチンのほうを見ます。
 そこにいるのは、

 母さんではありませんでした。

「……そやからな、内藤のやつ、見積もりと違うやないか。アホ言いなや、おまえ今週にはあげられるて言うたやないか。そやなのになんでそんな計算が違うんや。アホか、やりなおせ」

 キッチンにいるのは、土屋さんでした。
 赤いエプロンをして、菜ばしを手にコンロに向かっています。
 赤いエプロンは母さんのです。リボンの模様の入った、かわいらしいチェックのエプロン。デカイおっさんがしているところは、なんだか、……悪夢じゃないですかこれ。
 ……というか、何してるんでしょう……。何っていうのは、まあ揚げ物をしているんだろうということは分かるんですけど。
 土屋さんは、やたらと険しい顔をして、右耳と方の間に携帯電話を挟んで、なにやら話をしています。
「もうええ、期日にはいくらか余裕ある。……あ? 会社来い? 今日は有給や言うたやろが。やかましい。今日は絶対行かん。不安やったら静江さんに相談せえ。あんじょうしてくれるわ。ええか、俺は絶対に今日は出社せんからな……っち、熱っつッ!」
 油がひときわ大きく跳ねて、土屋さんは思わず半歩あとずさりました。
 その拍子に、携帯電話が床へ落ちます。
 ため息をつきながら、電話を拾って、再び耳と肩の間に挟む──そのとき、ようやく俺と目が合いました。
「……そういうわけやから、あんじょう頼むで。知らん知らん。内藤には、あとでお説教タイムや言うとけ。じゃあな」
 うわあ、とっとと電話切りやがりましたよ。
 いいんですか、それおっさんとして。あ、……ニートに言われたくないと思いますけど。
 土屋さんは、携帯電話を流しの台の上に置いて、コンロの火を止めました。
「おう、浩之。起きたか」
 この通り起きてますが……正直、土屋さんがまだ家にいるとは思ってませんでした。
 電話で母さんの名前が出ていたということは、母さんは出社しているようです。
 土屋さんは、火を止めたコンロの天ぷら鍋から、揚げていたものを箸でつまんでは銀色のバットに並べています。
「……何やってるんですか」
 寝起きのかすれた声で尋ねると、土屋さんが「なんか言ったか」と聞き返してきました。
「何やってるんですかって」
「揚げ物」
 そりゃ見れば分かりますよ……。
 俺がこっそりため息をついたのを目ざとく見つけて、土屋さんが顔を上げました。
「まさか起きるとは思わんかったんや。すまんかった」
 なんで謝るのか分かりませんけど。
 むしろ、
「……なんでいるんですか」
 尋ねてみて、非常に失礼な言い方だったことに後から気づいて、俺は言いなおしました。
「会社、行ったと思ってました。……行かなかったんですか」
「まあ、この通りやな」
 確かに。
 今ここにいるってことは、行ってないってことでしょうし。
 なんか間抜けなことを聞いた気がします。
 土屋さんは、流しで手を洗って、エプロンで手を拭きました。
 キッチンから出てきながら、首にかけていたエプロンを脱ぎます。
「だから、すまんかったて言うてるやろが?」
 ……はあ。
 別に俺は怒ってないですし、なんとも思ってないですし……?
 目が覚めたら、おっさんが赤いエプロンをつけて、台所で揚げ物してたってことに多少の疑問があるだけで。
 土屋さんは脱いだエプロンをリビングのテーブルの上に置くと、俺に近寄ってきました。
 そして、いかにも自然体に、俺の頭を、

 なでこなでこ。

 あ、またいつもの、孫娘見るみたいなしまりのない顔して。
 俺は、孫娘じゃないですよ。二十歳過ぎのでっかい可愛げのない男ですよ。
 でも、だからといって、跳ね除ける勇気なんかないから、黙って撫でられてやりました。しょうがなくですけど。しょうがなく。

 俺:二十歳すぎ(男)/容姿 ゾンビ
 土屋さん:おっさん(関西弁)/容姿 チョイ悪オヤジ
 ……この組み合わせで、この場面、絶対おかしいと思いますし。ていうか変だろ。

「浩之が起きるときには隣にいときたかったんやけどな」
「え……」
「寝る前そう約束したやろが」
「ああ……そんなことですか……別に、気にしてませんし」
 起きたときに思ったことが土屋さんにばれているような気がして、恥ずかしくなりました。
 恥ずかしくなった気持ちを悟られるのが嫌で、俺は土屋さんの手から逃れるようにキッチンに向かおうとしました。

 その腕を。

 俺のその腕を、土屋さんがつかみます。


「っ!?」


 手首をひねるようにされて、自然に身体がそりました。
 いきなりなんでそんなことをされるのか、わけが分かりません。
「いきなり何……離、」
 非難を込めて、後ろを振り返ると、険しい顔をした土屋さんがいました。
 お風呂場で、かみそりを取り上げたときの顔と同じです。俺は怖くなって口をつぐみました。簡単にいうと、びびりました。
 土屋さんは、怖い顔をしたまま、低く抑えた声で言いました。

「“そんなこと”?」

 声は穏やかですが、完璧に怒っています。
「もう一回言うてみろ」
 言えるわけがありません。
 ものすごい怒ってるのが伝わってきます。
 俺は、ようやく、自分の言い方があんまりだったことに気がつきました。
 いくら恥ずかしいからと言って、そんなこと呼ばわりでは、土屋さんだって怒ります。
 だって土屋さん、……俺のために、会社も休んでるんですから。

 ……最低ですね、俺。
 やっぱりクズじゃないですか。







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