俺がうつむいたのを見て、土屋さんの手の力が緩みました。
腕をとられたまま、土屋さんと向き合うような形にさせられます。
「ええか。そんなことでも何でもない」
つかんだ俺の手首を引いて、袖をまくられます。
「……!」
反射的に、腕を引こうとしましたが、土屋さんは許してくれません。
明るい昼間のリビングに、腕についた引き攣れた傷跡が晒されます。
滑稽で、惨めな刃物の跡。
嫌だ。
恥ずかしい、と思いました。
見られることが恥ずかしいと思いました。
土屋さんに見られることだけは。
「俺がどうとかは、好きに言えばええわ。そんなつまらんことで俺は怒らん」
息をひそめる間を与えるかのような、ゆっくりとした動作で土屋さんの硬い指が傷跡の一つ一つをなぞっていきます。
その傷の中には、泣きながらつけたものもある。笑いながらつけたものもある。
死ぬ気だったものも、汚れた血を流してしまいたかったものも。
生きようとするみたいに、切り付けた端から切り傷が痛みを発するから、それで泣いたこともある。
「痛かったんやろが。そういうふうにな、痛かったことを“そんなこと”で済ましたらあかん。……浩之。おまえ、そうやって本当はどうしようもあらへんのに大したことないみたいに言う」
一つの傷をなぞられるたびに、背中にぞくぞくしたものが湧いてきます。
……土屋さんは、真面目な話をしてくれているのに。
この震えの源を消すことができない。
「おまえが“そんなこと”って言うても、俺は大切なことやと思うた。だから、訊く」
傷跡に手を添えるみたいにして、土屋さんの静かな声。
「……怖い夢、見んかったか」
胸叩かれたような感覚になって、俺は呼吸を乱しました。
動揺したのが恥ずかしくて、浅ましく思えました。
だから、土屋さんの顔を見ることが出来ませんでした。
俺は、どうしたらいいのか分からなくなって、腕の傷に手のひらを添える土屋さんの手に視線を落としました。
その手、薬指。
銀色の環。
知ってた。
知ってたのに、初めて思い出したみたいな感覚でした。
ああ、いくらそんなこと言ったって、どうせこんな優しい言葉も──奥さんや子どもに向ける言葉と同じなんでしょ?
もう傷つくの嫌だよ。
“そんなこと”で済まさなきゃ、どうやって傷つくのをやり過ごせばいいの?
涙が出てきました。
こらえようと思ってもだめでした。
一度こぼれた涙は、もうどうすることもできません。
「……もう傷つくの嫌だ……!」
土屋さんの腕を振り払おうともがきます。
土屋さんは、それを許そうとしません。がっちりと、俺の腕をつかんでいます。
離せよ。僕のことなんかほっとけよ。
土屋さんのこと、……好きだから、傷つきたくない。
俺なんか土屋さんにとって、どうせその他大勢なんだって、目の当たりにしたくない!
「そやから、……そやから傷つくの嫌なら、俺に頼ればええやろ!」
土屋さんの怒声。
ああ……、完全に行き違ってる。
俺が引っかかっているのは、そこじゃなくて。
俺は、土屋さんの中で一番にはなれないんだっていう事実。
「た、……頼るもんか……、頼るもんか……! 絶対、俺は、土屋さんになんか、頼らないッ……」
「なんでやッ」
短い怒号に、俺は身体をこわばらせました。
「だって、……だって、」
だって。
言葉が続きません。
こんな無様な俺なんか。
ひざから力が抜けました。
床に座り込もうとする俺の身体を、土屋さんの腕が抱きとめました。
「……悪かった。悪かったな、いきなり怒鳴って悪かった」
土屋さんが謝りながら、俺の頭を何度も撫でます。
悪かった、怖かったな、と言いながら、抱きしめて髪にキスを繰り返しました。
小さい子にするように、背中をさすって、小さく揺すって。
俺は、突き放すこともできずに泣きました。
土屋さんのシャツを握り締めると、その手を握られました。
泣き声を殺そうと唇を噛もうとしたら、
キスされました。
触れるだけのキスでした。
唇に息遣いを感じました。
うつむこうとした俺を、土屋さんのかさついた唇が追いかけてきます。
唇や口元、頬に触れるたびに、土屋さんの無精ひげが肌をかすめます。
それが痛くて、痛くて、嬉しく思いました。
嬉しく思えば思うほど、傷つくことが怖いのに。
「……俺のこと嫌いか……?」
胸が絞られるように痛みました。
そんなかすれた、かすかな声で尋ねられると。
もう、泣く以外に俺はどうしたらいいんでしょうか。
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