俺は、土屋さんの胸に額をつけて、そっと首を横に振りました。
 ためらいがちに、土屋さんの左手を握って、薬指に指をからめます。
 土屋さんの息遣いが、問うように耳元をくすぐります。
 俺の指が意図を持って、その銀の環に触れていることに気づいたからでしょう。
 土屋さんが、小さく笑いました。
 指輪に絡む俺の指を、少し強引に握りしめます。
 俺の耳元で、笑いを含んだ深い優しい声。

「そういうことか」

 一瞬。
 抱きすくめられたかと思うと、すぐ近くにあったテーブルの上に仰向けに寝かされていました。

 え、一体、何が、……何がどうして、こうなっ……

「っん……!」
 何の前置きもなく、唇を奪われます。
 ほとんど無理やりのような勢いで、唇をこじあけられて、舌をからめとられます。
 ねじり合わせるように唇を重ねるせいで、土屋さんの無精ひげが触れてちくちくとします。鼻先が眼鏡のフレームに当たって、そのたびに視界が揺れました。
「っん、……ちゅ……、っふ……、」
 テーブルの上に乗るようにして、土屋さんが俺の上に覆いかぶさります。
 大きなごつごつとした手のひらが、両頬を包み込みます。
 舌を絡めとられるたびに動いてしまう頭を、支えているみたいでした。
「……っふ……、んんっ……」
 うまく呼吸が出来なくて、俺は眉を寄せました。
 苦しい、切ない。
 溺れてしまう。
 視界いっぱいに広がった土屋さんの顔を見つめていられない。
 少し伏せた土屋さんの目。
 心臓のどこかが跳ね上がるほどに、ときめいてしまうのに。
「っん、っあ……、っ……はぁっ……!」
 上あごの歯の裏をなぞられて、俺は思わず鼻に掛かったあえぎ声を漏らしてしまいました。
 ぞくぞくとした感覚が、身体の奥のほうから湧き上がってきます。
 土屋さんの唾液に濡れた唇が、ちゅ、ちゅと音を立てて頬にキスをします。
 眼鏡のフレームにキスしたあと、土屋さんが俺の前髪をそっと撫でつけてくれました。
「……あ……」
 間近に迫った、土屋さんの顔。
 俺はぼんやりと見つめました。
 まばたきを、何度か。
 土屋さんは、俺の頬にもう一度キスをして、出来の悪い孫娘を見るみたいに笑いました。


「前のと別れてもう随分になるんや」


「え……?」
 土屋さんは、俺の目の前に、左手の薬指をかざしました。
 そこには、きっちりとはめられている、銀色の指輪……。
「そやから、前のとはもう随分に別れた。そらおまえ、どんだけ昔かっちゅうと、俺が大学卒業してすぐ結婚して三ヶ月やぞ。大昔や」

 え……


 え……?


 え……!?

「この指輪なぁ。ほっておいたら関節んとこで引っかかって抜けんくなったんやな。何せ若い頃のやつやし」


 ………………は?


 ハハハと笑ってますけど、え、それ、……え、子どもいるとか言ってたじゃないですか。あの前フリ何!?

「で、今、俺の家にいるん、俺の姉貴とその子どもや。姉貴のやつ、しょっちゅうダンナとケンカしくさりよって、そのたんびに俺のとこ逃げてきよるんやな」

 俺はテーブルにひじを突いて、身体を起こしました。
 よっぽど俺は何かいいたげな顔をしていたのでしょう。
 土屋さんは俺の頬をぽんぽんと叩いて、唇をかすめるようにキスをしました。


「俺よりなんぼも年下に、こんなまねするの、勇気いるんやぞ。遊びとか冗談やない分、決死の覚悟なん、分からんか」


 そやから、と土屋さんは悪戯っぽく笑って俺の頬に頬を寄せました。

「そこんとこ空気読んで、おまえから甘えてくれればええんやけどな?」

 甘えるって言ったって。

 あ、

 だめだ。


 今、俺、すごく顔が赤くなっている気がする。


 仕方ないじゃないですか。
 この人、恥ずかしいことも平気そうな顔で言うんですから。
 こっちが恥ずかしくもなりますよ。
 あー、この余裕っていうのが、大人なんでしょうか……。

 そんな大人の余裕なんか見せられても困ります。
 というか、腹が立つから見たくない。
 これってつまり、俺が振り回されてるってことで
 いやまあ、年の功とかそんなで土屋さんに適わないことなんて分かってるんですけど、
 なんていうか、つまり……なんでこの人、こんなド級マイペースなんですか。
 本当、どこまでいっても土屋節だなこの野郎。

 俺が赤面して黙っているのに気がついた土屋さんが、調子に乗って耳にキスをしてきます。

 うう、この人なんでこんなキス魔なんですか……。不快な気分にならないからなおのこと始末が悪い。

「浩之は可愛ええなあ」

 耳元で囁くのやめてくださいよ……。
 俺みたいなののどこを見て可愛いと言えるのか、さっぱり分かりませんよ……。
 本当、目か頭かなんかどこかが腐ってるんじゃないんですか……。

 俺が黙っているのをいいことに、耳元のキスは次第に大胆になって、熱い舌の感触が伝わってきます。
「っ、……あ、……かっ、可愛いって、頭、おかしいん、…ないですか」
 ぞくぞくする。
 思わず首をすくめて、土屋さんの追及をかわします。
 声は、かっこ悪く震えてしまいましたけど。
 だって、こんな……、こんなことされて、平生でいられるほうがおかしい。
「可愛ええけどなぁ?」
「どっ、どこが、」
「んー? 全部?」
 ああ、深刻なバカなんだな。頭が、かわい、そう

 ぺろぺろという表現がふさわしいぐらいに耳を舌でなでられて、頭が真っ白になります。
 舌の感触の合間合間に、土屋さんのかすかに笑みを含んだ吐息が耳朶をくすぐります。

「そうやって、おまえ、俺が口説くように仕向けとるんやな。うまいやっちゃ」

 それは、多大なる勘違い……っ

「っひゃ!」
 いきなり、耳の穴に舌が差し込まれて、裏返った声が出ました。
「ええで。口説いたる」
 ああ……、何で、この人こんな……、こんなエロイ……
 声を聞かされるだけで、眩暈がしてしまう。
「何が可愛いって、長いまつげやろ、」
 唇で俺のまつげに触れて、
「なんか考えとるときに伏せ目がちになるところ、」
 まぶたの上に軽くキスして、
「時々生意気なこと言おうとするところとか、」
 俺の唇にそっとキスで触れてから、
「首の傷、」
 俺の首についている無残な死にたい傷跡に唇で触れながら、
「手首の傷も、」
 手をつかんで傷だらけの手首に口づけされました。
「おまえが……」
 土屋さんはそこまで言って、初めてためらいを見せました。
 問うように土屋さんを見つめると、土屋さんは俺の視線に気がついて、眉を寄せて笑いました。



「おまえが笑えばええと思ったんが始まりや」







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