真夜中さん、5円




 ……三月二日、雨



 昼間の曇り空は、夜になると雨を降らせ始めた。
 薄寒い春先の、まだしっかりとした根拠もない暖かさは、しとしとと降る雨に容赦なくかき消された。
 ショッキングなほどに攻撃的な、毒々しい明るさの深夜のコンビニ。無意味な床磨きの手を止めて、ウィンドーについた雨滴を見る。

 ──傘も持ってきていないのにな。

 店内の放送は、空回りの能天気さ。急に時間がもったいないような気がして、壁の時計を見た。時刻は、零時を少し過ぎたところだった。
 いくら二十四時間営業とは言っても、日付が変わる頃になれば客はほとんどこない。しかもこんな雨の降る夜では、客の足も遠のく。商品は整然と並んでいるのに、だだっ広い印象を受けるのは、客の姿がないからだ。
 今、このコンビニに存在する人間は、バイトの自分と、バックヤードにいるバイトだけだ。バックヤードのバイトは、大抵、客が来なければフロアになんか出てこない。多分、携帯でもいじっているのだろう。それはそれでも別に構わない。特に忙しいわけでもないし、さして仕事らしい仕事がない状態でフロアに来られても息が詰まるだけだ。楽しく会話するほど仲良くもない。険悪な仲でもないが。

 何となく視界に入った袋菓子の棚の、赤い色の袋菓子が減っているのに気がついて、前出しする。正直、こんなことに気がついてしまうほど、ヒマだ。
 ため息をつきながら、床磨きを再開する。だが、大体、懸命にモップで磨いたところで、この無機質なリノリウムの床が見違えるほどきれいになるわけでもない。薄汚れた部分は薄汚れたままだし、長年ついたままの汚れは、どんなに磨いてもついたままだ。
 それでも床を磨くのは、単にすることがないのと……磨き続けていればいつか気になっていた床の染みの一つでも薄くならないかという期待があるからだ。

 ──いつか。

 ──期待があるから。

 ──でも、結局は薄汚れたままだ。

 この着慣れた感のあるコンビニの少し野暮ったい制服が、まとわりつくように重たい。この仕事も、随分長く続けている。店舗は違えど、どこにいっても自分は深夜にコンビニの床をモップで無意味に磨いている。たまに、レジを打ったり品出ししたり、発注をかけたりはする。でも、自分の仕事のメインは床磨きなのではないか、と思う。

 大学に通いながら床を磨いていた頃は、あの染みをきれいにしてやろうとか、この薄汚れたところをピカピカにしてやろうとか、やたらと力をいれてごしごし磨いていたような気がする。でも今は、──大学を卒業して随分経った今は、もしかしたらいつかきれいになるかもしれないな、と思いながら磨いている。
 何だかそれは、ひどく馬鹿げていて、ひどくこっけいな比喩であるように思えた。
 でも、どこが馬鹿げていて、どこがこっけいなのか、よくわからない。
 何となく分かるのは、自分は多分、これからも深夜にコンビニの床を磨いているだろうということだ。それは安心する想像でもあったし、落胆する想像でもあった。つまり──これからも自分はどうということもなく、何ら変わらないだろうという予感だ。

 何故か、ため息が出た。

 ウィンドーについた雨滴の数が増えているのに気がついて、また同じことを思う。

 ──傘も持ってきていないのにな。

 ウィンドーに映った自分の顔が、相変わらず何を考えているのか分からない。重たい前髪に隠れそうな目元、無個性な目鼻立ち。まさしく、ぼんやり突っ立っているという表現がぴったりくる。快活さは、どこにもない。……元より快活さなんて持ち合わせていなかったのかもしれない。自分の顔を見るたびに、履歴書に貼った証明写真を見るような気分の悪さを味わう。
 視線を落そうとした瞬間、ウィンドーの向こうに、自動ドア入り口に駆け寄る客の姿を見て、思わず壁掛け時計に視線を向けた。
 零時十五分ちょっとすぎ。

 ──ああ、今日は真夜中さんが来る日か。









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