真夜中さん、5円
……三月四日 雨
真夜中さん、とアルバイトの間であだ名される客がいる。
これは別に蔑称でもなんでもなくて、単に深夜によく来店してくれるというだけでいつからかついた愛称だ。勿論、本人に対して、真夜中さん、なんて声をかけることは決してない。ただ、アルバイト間でよく来る客に対してこっそりとあだ名がつくことはよくあることで、それらは大抵、目立つ行動をする客につけられることが多い。たとえば毎週金曜日にコンドームばかりをまとめて買っていく中年男性には、コンドウさんとか。そういったいくつかのあだ名のついた客の中で、真夜中さんは本当に本当の意味で、からかいや皮肉の意なんてまったくない、愛称そのものだった。
真夜中さんは、そのあだ名のとおりに、深夜に来店する。時間帯は、零時から一時頃。年齢の頃は三十代だろうか。多分二十代ではない。服装は大体決まっている。ちょっとださめのパーカにジャージ。買うものも大体決まっている。スイーツと栄養ドリンクと、チョコレート。スイーツはその時々で種類が変わったが、栄養ドリンクとチョコレートの銘柄はいつも決まっていた。しょっちゅう来るので、自然と真夜中さん、とあだ名がついたが、他に変わった行動は何もない。だがしょっちゅう来る割に、店員がレジのついでにちょっとした挨拶をしても、いつもあいまいに視線を落としてもごもごと返事するだけで、まったく慣れる様子がなかった。いまだに、店員の中で彼と三言以上会話できた者はいないほどだ。
人と接するのが苦手なのだろうということは説明されないでも分かるが、そうならば興味が湧くのは一体何の仕事をしている人なのだろう、ということである。
深夜に部屋着のような格好で来店するということは、到底朝出勤して夜帰宅するような生活サイクルではないだろうし、あの対人スキルではコミュニケーションが主体の仕事は到底無理だろうし、そもそも何故、そんな深夜に栄養ドリンクを買いに来るのかも分からない。
アルバイトの間では、ニートだろうとか、自宅勤務の何かだろうとか、いろいろな憶測が飛び交ったが、正解はいまだに分からない。本人に特攻して聞くような猛者はいなかったし。
真夜中さんは、少しずんぐりとしていて、高校生アルバイトよりも背が低くかった。多分、170センチあるかないかというところだろう。髪は癖毛で黒、いつもちょっと困ったような顔をしている。あまりぱっとしない容姿なのは確かだ。でも、嫌悪感や不快感を感じさせることはなかった。多分、それは彼がどことなく、人のよさそうな雰囲気をまとっているからだと思う。
真夜中さんの存在は、特に深夜シフトのバイトの間では、身近な存在だ。
──深夜零時三十分すぎ。
今まさにレジを通している客の顔を見る。
下弦だけ太い縁の眼鏡、ちょっと困った顔。深緑のパーカ、下にはよれた襟のシャツ。
レジカウンターには、抹茶白玉クリームスイーツと、いつもの栄養ドリンク、おなじみの板チョコレート。商品をバーコードに通し始めると、客はごそごそとパーカのポケットを探った。
合計代金を告げると、彼は取り出したお札のしわを丁寧に伸ばしてから、つり銭容器に入れた。もらった金額をレジに打ち込む。お釣りの表示、自動で吐き出されるお釣りの硬貨。
いくらいくらのお返しです、と彼にお釣りを渡すまでの間、無言。
彼が商品の入ったビニル袋を手に下げたとき、ありがとうございます、と声をかけると、彼はかなりぎこちなく、ありがとうございました、と小さな返事をした。
ありがとうございました。
何だかお互いにありがとうございますの応酬をしていて変だな、と思ったときには、彼はもう店内からいなくなっていた。
この日、床磨きの合間にあった、ささやかな真夜中さんとのやりとり。
to be contonued.
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