失恋はいくつになっても慣れることはない。さらには、何度経験しても慣れることもない。何度も失恋を繰り返すと、人は学習して用心深くなる。これは大丈夫、という確信がもてるまで、安易に踏み出さないようになる。
 しかし、どんなに用心深くしていても失恋するときはするわけで──
 その場合の失恋が一番、ダメージがでかい。

 峰岸恭一は、大学の食堂で憂鬱なため息をついた。

 これは絶対にいけると思っていた女に玉砕した。脈ありだと思っていただけに、聞かされたNoという結果にべっこりへこむ。いい人だけどそんなつもりはないとか、一体何なんだと思う。いい人だったら恋愛対象にしてくれたっていいじゃないか。都合のいい断り文句だよな、と恭一は恨みがましく思った。

 悔しいのかショックなのか良く分からない複雑な気持ちで、紙パックのジュースを飲み干す。食堂は、ほとんど人が居なかった。昼時はとっくにすぎているせいだろう。侘しい食堂の雰囲気が、そのまま自分の気持ちなような気がして、恭一はさらにへこんだ。
 大学二回生、そろそろキャンパスライフを謳歌したい。そのための第一歩が、彼女を作ることだったのに──現実は、そう甘くなかった。今回の失恋は結構長引きそうだ……。

「峰岸恭一君だね!」

 不意に、名前を呼ばれて、恭一は顔をあげた。
 自分のテーブルに足早に近づいてくる男がいた。一目見て分かる悪い意味での無造作ヘア、垢抜けないを通り越したもっさりとした服装。自分とは明らかに住む場所が違うのがはっきりと分かる。
 せかせかといった歩調でテーブルのまん前に来ると、男は口角に泡を飛ばして言った。

「君こそが運命の人だ!」

 ・・・・は?
 恭一は勢い良く、聞かなかったことにした。


※ ※ ※


 衝撃的な告白をやらかしてくれた男は、その名も島川順作といった。

 恭一はあまりよく知らなかったが、大学でも有名な男で、その奇行は広く大学内で知られているらしい。初対面である恭一に「運命の人」発言をするのも十分に奇行だが、そのほかにもいろいろやらかしているという。
 何でも、実験と称して妙な装置を作ったり、観察と称して一日中食堂にいたり、とにかく一事が万事自分のペースで一目も気にせず振舞うものだから、立派な変人として周囲に認知されてしまっているそうだ。
 そうだ、というのはこれらの情報はすべて恭一の友人から聞いたものであって、恭一自身は順作のことをよく知らなかった──というよりか、全然知らなかった。

 聞けば、順作という男は、恭一の所属している学科とは違う学科に所属しているらしい。その上、彼は三回生で学年も違うため、講義でも今まで一度も顔をあわせたことがなかったのである。
 立派な変人として有名な順作だが、何とかと天才は紙一重、頭のほうはすばらしくいいらしい。すばらしくよすぎて、常人には理解しがたい域に達してしまっているのだろう。

 実際、理解できなかった。
 いきなり濃い男に「運命の人だ」と言われてうれしいはずがない。あの衝撃的な告白を聞かされた後、恭一のとった行動は、「聞こえないふりをしてその場から離れる」だった。追いかけてくるのでは、と不安に思ったが、幸い、順作は後を追っては来なかった。

 衝撃的な出会いから数日後──

 あの食堂での一件は自分の夢だったのではないかと思い始めた頃、再び衝撃が襲った。
 大学の門を出たところで、順作に遭遇したのだ。

「峰岸恭一君!」

 声を掛けられ、恭一は取り乱した。取り乱して、つい足を止めてしまった。
 変人は話を聞いてくれると思ったのか、せかせかと近づいてきた。

「良かった、探していたんだ。話したいことがあって」

 こっちは話したいことなんかない。
 恭一は聞こえないふりをした。鞄を持ち直して、さっさと歩を進める。大学から駅までは徒歩五分ぐらいだ。駅に入れば、相手も諦めてくれるだろう。

「峰岸恭一君! 待ってくれ! 話が」

 聞きたくない。聞く気もない。こんな変人と知り合いと思われるのも心外だ。
 恭一は一心不乱に駅に向かった。足早に、そして最後は駆け足で。だが、順作はどこまでも追いかけてくる。食堂のときとは違って、追いかけるのを諦めてくれない。
 
「峰岸恭一君! 待ってくれ! どうして逃げるんだ!」

 いい加減察してくれればいいのに、熱心に追いすがってくる。この情熱は一体どこからわいてくるのだろう。ここまで露骨に無視されているのに、それでも「どうして逃げるんだ」といっているのだから恐ろしいマイペース……というか、自分を客観的に見れていないのではないか。

「峰岸恭一君! 私は島川順作だ! 理正義大学三年──君は運命の──」

 大声で宣言しはじめたので、恭一はあわてて引き返して順作の口を手でふさいだ。
「むー! むー!」
 手のひらの下で、もごもごと順作が何か言いたそうにする。
 周囲は何事かという顔でこちらを見ている。視線が痛い。恭一は苦い愛想笑いを浮かべて、順作の口に手をあてたまま、近くの喫茶店に引きずっていった。


※ ※ ※


 店の奥まった席を確保すると、恭一はようやく順作の口から手を離した。

「峰岸恭一君! 何故そんなことをす」
「いい加減にしろよ! 人の……!」

 そこまで言って、恭一は周囲の静けさに気がついた。店内に客は二、三組しかなかったが、それでも何事だろうとこちらを見てきている。恭一は声のトーンを抑えて続けた。

「人の迷惑ってものを考えろよ……! 大きな声で人の名前連呼しやがって……」
「それは私が呼んでも君が返事をしなかったからだろう」

 確かに返事はしなかったが、それは係わり合いになりたくなかったからだ。そもそも係わり合いになりたくないと思わされるようなことをしているのは順作のほうで──

「私は君が運命の人だと言ったのに、君は何故逃げるようなことをするのだ?」

 開き直っているのだろうか、それとも自分が何を言っているのか分からないのだろうか。順作はあいた口がふさがらないことを言った。何故逃げるのかといわれて懇切丁寧に説明してやる義理はない。大体、自分の奇行をまったく自覚していないのだろうか。
 恭一はあきれてため息をついた。
 順作は、相変わらずの無造作ヘアと無造作な格好をしていた。丸眼鏡をかけている。顔色があまりよくないように見えたが、多分、元々なのだろう。根ぐらい内にこもった目つきをしていると思っていたが、意外にも彼の目は生気に満ちていて、知性的な光に満ちていた。頬はこけてはいないが、あごがとがっていてシャープな印象がある。すっと通った鼻梁は、顔の彫りの深さをよく表していた。
 それなりに気を遣えば、見れる容姿をしているのではないだろうか。あくまでも容姿だけなら、そう悪くない。

「まったく、君はあまり人の話を聞かないタイプなんだな」

 あきれたように言われてしまった。アンタに言われたくないと喉元まで出かけたが、無駄に会話をして変な勘違いされても困る。ぐっとこらえて聞かなかったことにした。

「俺はアン……先輩とそんなに親しくなかったつもりなんですが、いきなりそうやってなれなれしくされても」

 変人は変人でも、一応相手は一つ上の先輩だ。なれなれしくしないでほしいという口でタメ口を利くのも憚られたので、無理に敬語で通す。実際のところ、先輩ともなんとも思っていなかったが。

「そうか? 私は君に、運命の人だと告げたのだがな。分かってくれていると思っていたんだが」

 何が一体分かってくれていると思ったのだろう。少なくとも、自分は分かったと一言も言っていないし、そう勘違いされる行動もとってない。思わせぶりなこともしていないつもりだ。
 この人は、妄想癖があるのではないだろうか……?
 恭一は不安になった。この先輩は、自分の言っていることを果たしてどれだけ理解できているのだろう……

「君はすごいぞ。どこをとっても運命の人としかいいようがない。それは誇ってもいい」
「アンタ、頭おかしいんじゃないか」

 思わず言ってしまった。もう相手が先輩だからとか、礼儀がどうとか、どうでもよくなった。付き合いきれない。この人は自分とは違う次元で暮らしているに違いない。
 先輩は、乱暴な物言いにもまったく動じなかった。それどころか、なんだか嬉しそうに続ける。

「いや、最初は信じられないかもしれないが、本当だ。君は理想にぴったりだよ!」
「だから……」
「謙遜はしなくていいぞ!」
「だから、謙遜とか……。アンタ、何言ってるのか分かってる? 運命とかなんだとか言われても、俺、困るから。そんなつもりないし」

 今まで何を言ってもマイペースだった順作が、急にしょんぼりした。

「……だめなのか?」

 ひどくがっくりと肩を落としているので少し可哀想になった。方向は変だが、感情の表現がとてもストレートで見ていて飽きない。自分のよく分からないところで一喜一憂しているのは複雑だが、おそらく根が素直なのだろう。何となく、見ていてかわいらしいなと思った。
 ……だからといって、運命云々に同意するつもりも受け入れるつもりもないが。

「峰岸恭一君、私はどうしたら君にOKをもらえるのだろう」

 そりゃどう頑張ったって無理だ。……そう言おうと思ったが、伺うような視線についほだされてしまった。

「OKとかそういうのは抜きにしても、格好に気を遣うとか、そういうの気をつければ? アンタ、唐突すぎるしさ……もう少し段階踏めば、俺以外の誰かにOKもらえるんじゃないの。俺は無理だけど」
「君じゃないと困るのだが……」

 飾らずに返ってくる熱烈な言葉に、思わず息が詰まる。一途というか、周りが見えていないというか──失恋したばかりの自分が言うのもなんだが、場数を踏んだことがないのが丸分かりだ。唐突な告白は、こういったことに不慣れなせいで起きたのだろう。
 恭一は少し困って、それから仕方なくため息をついた。

「俺のどこがいいの?」
「どこって……難しいことを聞いてくるんだな。すべてが理想的だ。本当に君は運命の」
「あー、うん。そう。分かった」

 恥ずかしいことを言われる前にさえぎる。この先輩には、羞恥心がないらしい。
 恭一はしばらく考えて、順作の顔を見つめた。頬杖をついて、投げやりに言う。

「じゃあさ、一週間ぐらい様子見てOK出すかどうか考えるよ。あんまり期待しないほうがいいけどね」
「なるほど。確かにそれも一理あるな。君は私が信頼に足る人物かどうか見極めるということか」
「ああ、まあ。そうかな。あんまり期待しないほうがいいけど」

 OKするつもりなんてさらさらなかった。付き合うつもりなんかこれっぽっちもない。ただ、目の前の男があんまりころころと表情を変えるので、ちょっとだけ面白くなった。
 こっちは失恋で心に深刻な被害が出ている。その傷がマシになるまで、この男をからかって遊んでやろう。そんな軽い気持ちで言ったのだった。

「ありがとう、峰岸恭一君。よし、これから私は頑張るぞ」

 そう言って先輩は、それはそれは嬉しそうに、笑った。








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