七限目の講義を終えて、開放感に浸りながら講義室を出た恭一を待っていたのは、聞き覚えのある声だった。

「峰岸恭一君!」

 聞き覚えのある……というより、一度聞いたら耳について忘れられない声だ。初めてこの声を聞いたとき、その声がもたらした衝撃的 な発言も勿論頭に焼き付いて離れなかったが、声そのものの微妙な高さとトーンが耳について離れなかった。不快というわけではなかっ たが、この微妙なニュアンスを含んだ声は、大抵の雑踏でも聞き取れた。それが不快だ。
 恭一はとりあえず声を聞かなかったことにして、講義室の集まった棟を出ることにした。幸いなことに、講義をやっていた部屋は、一 階にあった。このまま、講義を受け終えたほかの学生と一緒に、エントランスになだれ込めば、雑踏にまぎれて聞こえなかったせいにで きる。

「峰岸恭一君! みねぎし……」

 背後から必死に呼びかける声が聞こえる。先日の衝撃的な出来事が思い出されたが、無理やり知らないふりをする。大体、ようやく一 日の最後の最後である七限目の講義を終えたこの開放感と幸福感を、誰にも汚されたくない。いや、汚されてなるものか。
 足早に他の学生にまぎれてエントランスを出る。この調子で、構内を出れば。

「峰岸恭一君! みーねーぎーしーきょーうー……」

 だんだん、声が大きくなってきた。
 次第に、周囲の学生がひそひそ話をしはじめる。ちらちらとこちらを伺うような視線は気のせいではないだろう。同じ講義を受けてい れば、直接知り合いではなくても、名前ぐらいは覚えている可能性がある。
 やけに周囲の空気が、あの変人にからまれているかわいそうな学生が「峰岸恭一」で、その「峰岸恭一」はどうやらさっきの講義を受 けていたらしい、という気の毒なものを見る雰囲気になってきた。すれ違った女のグループが、意味ありげにこちらを見てきていたのに も引っかかる。
 嫌な空気に懸命に耐えているというのに、声はますます大きくなった。

「みーねーぎーしーきょーうーい……」
「やめろ!」

 耐え切れず遮る。

「やっと気づいてくれたか、峰岸恭い」

 恭一は順作の腕をつかんで、講義棟と講義棟の陰に引きずっていった。
 周りに人目がなくなったことを十分に確認してから、順作の腕を放す。

「どういうつもりだ!」
「どういう……? 私は峰岸恭一君に用があって、声をかけただけだが」

 順作は、きょとんとした顔をした。相変わらずの無造作ヘアと、もっさりとした格好だ。着古してよれよれになったパーカーがなんと もみすぼらしい印象を与える。肩からかけた布製の鞄はなぜかパンパンに膨らんでいたが、それがまた垢抜けない感じがしていただけな い。
 ため息が出た。

「アンタには恥がないのか……」
「恥?」

 順作はこちらを見上げて、小首をかしげた。何の話か良く分からない、という様子だ。
 こちらを見上げて……?
 ……そこでようやく、恭一は、この先輩が自分より背の低いことに気がついた。痩せていてひょろりとした雰囲気があったから、背が 高いのかと思っていたが、よく見てみれば華奢で頼りない。胸板や肩は痩せていて少し強く押したら、簡単によろめいて転んでしまいそ うなほどだ。

「……って、そんなことはどうでもいいんだよ! 先日といい、今日といい、マイペースにでかい声で人の名前を連呼しやがって。少し は周りを見ろよ」
「も、もしかして私は君に迷惑をかけてしまったのか……?」

 順作は急に神妙な顔になった。作っているような節はどこにも見当たらない。多分、本当に神妙な気持ちになっているのだろう。
 恭一は小さくため息をついて、こめかみに指をあてた。

「もしかしなくても、迷惑そのもの」
「そ、そんな……。そうだったのか……。すまない、悪気はなかったんだ……」

 しょんぼりうつむいて詫びられる。悪気がないのは、見ていて良く分かる。これでもし、悪気があったら、ここまでこんな変人と話し 込んだりはしない。ただ、悪気がないから困りものなのだ。
 頭が痛くなってきて、恭一はこめかみを揉んだ。

「……で、何? 俺に何か用?」
「そ、そうそう、そうだ。君に用があったんだ。君に、私の研究を見てもらおうと思って!」
「研究?」

 恭一は胡乱な顔で順作を見つめた。

「私の研究だよ! 君に見てもらいたくて」
「研究」

 ──全然興味がない。
 そもそも、研究とか観察とか、この変人先輩が関わっていなくても興味がない分野だ。詳しくああだこうだと説明されたところで、理 解する頭もつもりもないから、説明を受けるだけ時間の無駄なような気もする。
 そんなどうでもいい研究とやらの発表より、七限まであった講義を乗り切った自分の身体をいたわってやりたい……。つまり、さっさ と家に帰りたい。
 恭一は、ちらりと順作の顔を見た。
 厚い眼鏡レンズの奥の彼の目は、普段よりもましてきらきらしている。心なしか、生き生きしているようにも見えた。
 確かに先日、チャンスを与えるような形にはなってしまったが、だからといって、この変人と仲良くするつもりなんてまったくない。 これっぽっちもない。まあ頑張るんだったらどうぞそっちがご自由に、というぐらいの意味合いで、いきなり研究だどうだといわれても 正直困るだけだ。
 だが──
 ここで、研究なんかどうでもいい、とシャットアウトしたら、この表情はどんなに曇るだろう。無理に笑って、何でもないように振舞 うのだろうか。なんだか、それは。

「……研究って、内容は何」

 心の中で、もう一人の自分が深入りするのはやめろと制止の声をあげたが、もう遅い。自分でも馬鹿だと思ったが、何となく、この表 情が曇るところは見たくない気がした。分かってて口を滑らせたのだ、仕方ない。
 順作の顔が一気に明るくなった。

「な、な、な、内容はね、ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ、し、し、資料を」

 わたわたと、パンパンに膨らんだ鞄のチャックを開ける。
 ──そこで、その鞄の出番というわけか。
 恭一は冷静な気持ちで順作を眺めていた。研究とやらに興味はまったくない。多分資料を見せられても、適当な相槌しか打たないだろ う。一つ気になったことといえば、この先輩は興奮したり緊張するとどもるのだな、ということぐらいだ。
 順作は鞄から、年季の入ったひどく分厚いファイルを出した。紙がところどころはみ出ていて、見ただけでこれを説明するのかとげん なりしてしまう。

「こ、こ、このファイルにね、資料をまとめて……、わっ……!?」

 バサバサバサっ……
 順作が手を滑らせた。ファイルに挟んでいた紙が、なだれを起こして大量に舞う。一体何枚ぐらいあるのだろうか、あたりの地面が真 っ白だ。

「ああ、何てことだ。まいったな、どうしてちゃんと綴じておかなかったんだろう、こんなことになるとは! 峰岸恭一君、ちょっと待 ってくれ、今資料を集めるから!」

 順作は、地面にひざをついて、あわてて資料をかき集めはじめた。

「落ち着けよ……」

 やれやれとため息をついて、しゃがんで足元に落ちていた紙を拾う。何が書かれているんだろうかと目を通してみたが、案の定、何が 書かれているのかさっぱり理解できない。理解することを実に数秒で諦めて、拾った紙をそのまま順作に突き出す。

「あ、ああ、本当にすまないな、鞄に詰め込みすぎたようだ」

 順作は大切そうに紙を受け取り、ファイルに丁寧に挟んだ。

「あれもこれもと詰めていたら、こんなにいっぱいになってしまうとは……。はじめからちゃんと綴じておけばよかったのだな。どうも 資料の整理は苦手だ……」

 そういいながら、順作は四つんばいになった。遠くに落ちた紙を集めようと手を伸ばした拍子に、胸元が大きく開く。そんなつもりは なかったが、目の前で見せ付けられて、思わず視線を注いでしまう。
 青白い肌に、想像の通りに痩せた胸。どれだけ痩せているのだろうか……。

「……君? 峰岸恭一君?」
「あ、……何?」

 我に返る。何を凝視しているんだか、と自分を恥じる。
 順作は不思議そうに小首を傾げた。その角度と体勢では、胸が丸見えだ。痩せて浮き上がる感じになった鎖骨が艶めかしい。
 ……艶? まさか、バカな。誰が相手だと思ってる? 変人相手に艶っぽいとか、見とれるとか、……見とれる? 何を考えてるんだ。 見とれてなんかない。ただ眺めてただけだ。

「……と思ったんだが、私の気のせいか?」
「え? あ、ああ、そう。気のせい」

 全然話を聞いてなかった。でもとりあえず、気のせいに違いないから、気のせいだと答えておく。

「だったらいいが。……ああ、その、そこの」

 そこの? 一呼吸遅れて、自分のすぐ横に紙が落ちていることに気がついた。ややぎこちない動きで、その紙を拾う。

「ああ、ありがとう。全く、私は落ち着きがないな」

 まいったまいったと少し照れたように笑いながら、手を差し出してくる。握ってほしいのかと勘違いして、動揺する。動揺してから、 ああ違う、紙を渡してくれと言っているのだと理解した。
 拾った紙を手渡し、恭一は立ち上がった。どうにも調子が悪い。自分のペースが一方的に乱されている気がする。
 大体、この先輩は一事が万事、マイペースで──。
 その先輩は、ようやく地面に散らばった紙をすべて拾い終わった様子だった。使い古して表紙が色あせたファイルに、そろえた紙を丁 寧に挟んでいる。
 ──大体、何で自分がこんな変人に。
 恭一はばかばかしい、とため息をついて目をそらした。こんな変人に運命の人だと告白されてもうれしくも何ともない。大体。大体。
 恭一は、ふと、疑問に思った。
 そういえば、一日の講義は七限目が最終だ。ただ、自分が受けていた先ほどの講義は、二回生が対象で、学科も恭一の所属している学 科の学生だけが対象になっている。順作にこの講義を受けられる資格はないし、履修登録をしていないのは知っている。七限目の講義は 特殊で、そう多くないから、順作がこの時間帯まで構内に残っているのは不自然だ。サークルか何かで残っていたのだろうか。
 疑問に思っていたのが顔に出ていたらしい。順作は紙を綴じ終えたファイルを手に立ち上がりながら、再び不思議そうな顔をした。

「どうかしたのか? 納得がいかないような顔をしているが」
「アンタ、何でいるの?」
「何でとは失礼じゃないか。私は峰岸恭一君に用事があって」

 むっとした顔は初めて見る。どことなく幼い表情に面食らいながら、恭一は、そうじゃなくて、と制した。

  「こんな時間まで何で残ってるのって。サークルか何か?」
「君は何を言っているのだ。何度も言っているが、君に用事があったからだ」
「は? いや、だってさ。それはわかってるけど、七限目って最終じゃん。七限目講義入ってるの? アンタ」
「何が言いたいのか私には今一つよくわからないのだが……私は七限目に講義は入っていないぞ。サークルにも入っていない。……それ が不服か?」
「え、じゃあ、何、待ってたわけ?」
「そう言っているつもりだったが……」

 こともなげに答えて、順作は顎に手をやった。

「先日、君に言われたではないか。私が信頼に足る人物かどうか見極めてもらって、それが可ならば、私の願いを聞き入れると」

 確かに言った。言ったことは言ったが。

「だから、まずは、私の研究の内容を見てもらおうと思ったのだ。私はいたって真面目に研究に取り組んでいることや、私の研究の内容 を知ってもらえば、君も私を認めてくれるかもしれないからな!」

 順作は、えっへん、とでも言わんばかりに胸を張った。得意満面の笑みだ。
 恭一は眉間にしわを寄せた。そうしないと、なんだかとんでもないことを思ってしまいそうな気がした。

  「実はずっと君を探していたのだが、なかなか見つからなくてこんな時間になってしまった。でも、まあ、この時間の方が、ゆっくり話 せるかと──」
「……どれぐらい待ったの」

 普段より一つ低い声で尋ねる。順作はその機微に気づくことなく、笑って答えた。

  「なあに、大して長い時間でもない。早く会って話をしたかったから、七限目が始まってすぐ待っていたかな。その間に、君にどう話を 始めようかと考えていたが、このばたばたですっかり忘れてしまったよ。はっはっは……」

 笑い話で済む問題じゃない。恭一はひどく動揺して、ますます眉間にしわを寄せた。口を開いたら、自分が何を言い出すかわからなか った。怒っているわけではない、どん引きしているわけでもない。ただ、順作の顔をまともに見ることができない。

「でもよかったよかった。講義が終わって出てきた君に声をかけたが、気づいてもらえなくて一時はどうなることかと……」

 そこまで言って、順作はハッとした顔になった。

「も、もしかして、この行為が迷惑そのものだったのか!?」
「っ……」

 順作の素直すぎる反応に、思わず小さくむせる。言いたくないが、認めたくないが、あり得ないことだとはわかっているが、……なぜ かかわいらしく見える。頭がどうかしてしまったに違いない。こんな変人であか抜けない、しかも男なんかにかわいいなどと。
 気のせいだ。混乱だ。気の迷いだ。疲れているだけだ。恭一は必死に自分に言い聞かせながら、ポーカーフェイスを何とか保つ。

「もういいよ、その話……。さっさと話、済ましてよ。研究だっけ?」
「ああ! そうだった、そうだった。君に見せたいものがくさんありすぎて、鞄がパンパンになってしまったのが問題だ。詰め込みすぎ はよくないな! ええと……ど、どれから話そうか……き、君に聞いてほしいことがたくさんあって、き、緊張してしまうな……」

 うっすらと頬を上気させてうれしそうにする順作をもろに見てしまって、恭一ははっきりとむせた。それを隠すために、前かがみにな る。

「ど、どうした、峰岸恭一君。何を笑っているんだ……?」

 困惑声がとどめをさした。
 認めたくない。自分は違う。そうじゃない。そうじゃないのに、そういう方向に思いを巡らせてしまう自分がいる。
 きっと、失恋したばかりだからだ。心身ともに弱っているせいだ。だから、こんな男相手に血迷ったことを。
 恭一は息を吐いて、体を起こした。険しい顔になっているのが自分でもわかる。こんな血迷ったことは、やめてしまうべきだ。……男 を相手にする気なんかないし、そういう気は全くない。これ以上、この変人になつかれても困る。

「悪いんだけどさ」

 順作は眼鏡越しに、恭一をじっと見つめた。その目には、素直さやあどけなさがあるような気がした。
 振り切るようにして、わざとらしくぶっきらぼうに続ける。

「俺、忙しいから。研究とか、興味ないし。どうでもいい。用事あるから」
「え……」
「それからさあ、こんな出待ちみたいなことされても困るの。やめてくれない?」
「あ……」

 順作の表情がこわばった。それを見ると、さっと恭一の全身に冷たいものが駆け巡った。言ってしまった。自分はもう、取り返しがつ かないことを言ってしまったのだ。
 順作はがりがりと頭をかいて、笑った。

「そ、そうか、やっぱりそうだったんだな。あ……、その、悪かった、峰岸恭一君。私は、本当に、……だめだな」
「……だめとか、」

 言い繕おうとする言葉を、飲み込んだ。ここで言い繕ったら、意味がない……。

「……わ、わかってるんだ。どうも私は人がどう思うかよく考えないで行動してしまうところがあるらしい。はっきり言ってくれたほう が絶対にいい。いや、ありがとう」

 順作の顔をまっすぐ見ることができない。眼鏡の奥のあの目は、どんなに曇っているだろう。

「じゃ、じゃあ、私は先に帰るよ。迷惑をかけて、すまなかった」

 こちらの返事を待たずに、気配が遠ざかっていく。気配が完全に行ってしまうまで、恭一は地面を見ていた。
 これでいい。こんな説明のできないことは、深入りしない方がいいのだ。元々、あの先輩と仲良くするつもりなんかなかったし──
 恭一は険しい顔をして、夕暮れの空を見つめた。自分の言ったことは確実に順作を傷つけただろうが、長い目で見ればこれでよかった のだと言い聞かせながら。








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