問題の土曜日になった。
 由利が午前中は予定があるというので、件のアイスでデートは午後からになった。恭一はそれはもう今までにないぐらい緊張していたが、実際由利と顔を合わせるのは午後からなのだ。緊張の割には、顔をあわせる時間はさほど長くはない。アイスでデートがうまくいけば、ホテルへ……という流れもあるかもしれないが、由利と自分の関係を見ていると、どんなにご都合主義に、楽観的に見てもその可能性は著しく低いのは間違いなかった。
 うまくいっていないという現実を目の当たりにすると複雑な気持ちになる。しかし、恭一の中には由利と絶対にエッチしたいという気持ちがなかった。何より、何を考えているかわからない彼女を前にして、ホテルでどうこう、という妄想は少しきついものがあった。男の生理的欲求として、セックスしたいという気持ちはあるにはあるが、いわゆる、絶対キメてやるという意気込みはほとんどなかった。
 由利は、確かに可愛い。一緒にいると、自分は充実した時間を送っているという気分になる。だが、由利と一緒にいて楽しいかといえば、首を傾げざるを得ない。楽しかったことがあったっけ、などと思い出そうとしてしまうあたり、それは強烈に恭一の中で違和感になった。
 この違和感は、晴喜に由利のことを相談してから、さらに強くなった。
 ──相手の顔ちらちら伺うって、それってマジで付き合うとかそういう次元なの?
 あのときは、聞き流していたが、あとになってこの晴喜の言葉が頭の中で何度も繰り返された。それはもう、風呂に入っているときも寝る前も。
 今日も自分は、由利の顔色を伺いながら、アイスを食べるのか。おいしい、と感想を言うのにも、彼女の顔色を伺って? ……それはなんだか、デートではないような気がした。それとも……、この気遣いも、しばらく我慢して続けていれば、慣れてくるのだろうか。
 恭一はなんだか、どんよりとした気持ちになった。
 今日もまた、彼女の顔色をうかがいながら、言葉を選びながら、ぎこちない会話を続けようと努力したり、無理に笑ったりしなければならないんだろう……。
 部屋の時計を見ると、一時三十分すぎを指していた。約束の時間は二時だ。恭一はため息をついて、立ち上がった。
 晴喜は、自分と由利が店に入って十五分ぐらいしてから来店することになっている。
 もしかしたら、晴喜が加わることで、由利との会話も多少は弾むかもしれない。もしかしたら、自分が気を使いすぎていて、由利は息苦しさを感じているだけで、それを晴喜が指摘してくれるかもしれない。もしかしたら、
 恭一はそのかすかな望みにすがるような気持ちで、自分の部屋を出た。

 ※ ※ ※

 昼過ぎの駅前は、人でごった返していた。今日が土曜日なのもあるだろう。見かけるのがカップルばかりに見えるのは、これから自分がデートに臨むからに違いない。恭一は、ついつい、すれ違うカップルの男のほうをこっそりチェックした。彼女にどういう態度をとっているのか、見てみたかったからだ。どんな態度がいわゆる普通のカップルなのか、知りたかった。
 しかし、どのカップルも楽しそうで、問題などどこにもかかえていないように見えた。彼女が何を考えているのかわからないようなカップルなんてなかったし、男のほうがひたすら彼女の顔色を伺っているというカップルも見かけなかった。とにかくみんな幸せそうで、楽しそうで、……なんだか自分のことを振り返って考えると、暗い気持ちになった。
 ──これからデートなのに、全然気持ちが高揚しない。むしろ気が重くて仕方ない。
 むしろ、……帰りたくなってきた。
 可愛いなあと見ているだけなら、アイドルやAV女優を眺めてたっていいわけで、気まずさを感じながら由利を眺める必要なんかどこにもないのだ。アイドルや女優のほうが、気遣わなくていいだけ気が楽でいい。眺めてて気が向けば、しこしこ抜いたっていいのだ。それに関して、テレビの中でアイドルが嫌そうな顔をするわけでもないし。
 はあ、とため息が出た。
 ジーンズのポケットから携帯を取り出して、時間を確認する。時刻は二時をすぎている。
 由利の姿はどこにも見当たらない。なんだかほっとした。……変な話だ。
 このまま彼女は来ないんじゃないだろうか。それでもいい──むしろ、そのほうがいい気がする。そしてこのまま、自然消滅……ああ、なんかそれでもいいような気がしてきた。
 由利のことは嫌いじゃないが、とにかく顔をあわせて話を盛り上げていかなければならない、と考えると気が重くて仕方なかった。気が重くなると、由利と顔をあわせること自体が億劫に思えて仕方なくなってくる。
 そもそも、恭一と由利には、共通の話題というものがほとんどない。その中で会話を盛り上げようと思えば、相当な技術が必要なのだ。それこそ、今日は天気がいいですね、から一時間ぐらい会話を続けられるような技術が。
 恭一はもう一度、人でごった返す駅前を見回した。由利の姿は見えない。何気なしに目が合ったカップルが、露骨にこそこそと足早に通り過ぎていく。……因縁をつけられると思われたらしい。失礼な話だが、珍しくはない。露骨に道を空けられたり、席を空けられたりするとさすがに傷つくが、何見てんだと噛み付かれるのよりはマシだ。
 恭一の手の中で、携帯が振動した。メールだ。
 確認してみると、由利からだった。電車に乗り遅れて、遅刻してしまったらしい。三十分ほど遅れてしまう、という内容だった。
 ああそう、というのが恭一の最初の感想だった。それからほっとした。少なくともあと三十分は、ぎこちなく笑ったり気を使ったりしなくていいのだ。
 適当に当たり障りのない返事を書いて、適当に顔文字をくっつけて返信する。……そうしないと、由利が遅刻を気にするかもしれない。別にそこまで感情を込めてないのに、無理やり笑った顔文字をくっつけることに少しだけむなしさを覚える。
 それにしても。
 三十分もぼんやりと駅前に突っ立っているのは気が進まない。さっきみたいに、露骨に避けられるのも地味にテンションが下がるし、何見てんだと難癖つけられるのも困る。
 ──仕方ない。
 別に用事はなかったが、真向かいにあるコンビニに入って時間を潰すことに決めた。
 歩き出しながら携帯をジーンズの尻ポケットに突っ込もうとして、恭一は思い出した。由利が三十分遅れるのなら、晴喜にも連絡を入れなければならない。
 片手だけでコールして、耳に当てる。メールは面倒くさいし、直接電話したほうが早い。
 コール音、二回、三回。
 横断歩道を渡って、コンビニへ。
 横断歩道を渡り終えたとき、電話口で晴喜の声がした。


『どうした、恭一』
「いやさ、由利が遅れるって言うから」
『はあ? 俺もうアイス屋の前だけど? 何やってんだよ』
「ええっ、もう着いてんの? 悪イ、さっきメール入ってさぁ。三十分ぐらい遅れるとか言うんだ」
『なんだそりゃ……おまえ今どこ?』
「駅前のコンビニ入るとこ。時間潰……」

 コンビニの自動ドアをくぐろうとして、足が止まった。
 コンビニのすぐ横にある花壇の前で、見知った後姿。今ひとつ垢抜けないパーカーに、ぼさぼさの髪。たすきがけにかけた使い込んだ鞄。後姿でもわかる、小柄な体格。
 ……先輩。

『……い? ……一?』

 耳元で、誰かの声がする。
 先輩の周りには、三人ほど茶髪の男がいて。とてもとても、友好的な雰囲気じゃなくて。
 先輩があとずされば、三人の茶髪が何かを迫って。
 ドン、と誰かにぶつかった。我に返って、自分がコンビニの自動ドアのまん前で立ち止まっているのに気がついた。ぶつかった相手はさっさとコンビニに入って行っているのに、遅れて頭を下げたりして──
 自動ドアの前から離れて、視線を再び先輩に戻す。
 恭一が見たのは、先輩が渡すのをためらった何かを、茶髪男が強引に奪い取るところだった。あまりに乱暴に奪い取られたせいなのか、先輩が後ろによろめいた。
 恭一は無意識に走り出していた。
 先輩の後姿に近づく。会話が聞こえた。

「何、今更そんなこと言ってんの? 嫌なら最初から言えばいいじゃん? 俺ら別に無理やりやらせてるわけじゃないっしょ?」

 ハハハ、と笑い声。

「ま、そうだよな。おれら、無理に頼んでないし? 暇なら、おれらの分もやっといてって言ったんじゃん?」
「…………」
「あ、ひょっとして、前の恥ずかしいことされたのが嫌だったんじゃないの? あれは謝ったじゃん? なあ」
「ちゃんと謝ったよなー?」

 茶髪男たちがお互いの顔を見て、笑っている。嫌な、厭らしい笑い方。
 ──恥ずかしいこと。
 恭一の中で何かが切れた。
 気がついたら、恭一のこぶしは、真ん中に立っていた男の汚い頬を殴っていた。
 バキ、という音がした。
 殴られた茶髪音が倒れそうになるのを、襟首をつかんで引き起こす。そして続けざまにもう一発。頬骨の確かな手ごたえ。ぐえ、といううめき声を聞きながら、襟首から手を離す。ぼんやりそれを横で見ているもう一人の茶髪のあごに、アッパーを見舞う。驚くほど綺麗に決まった。アッパーを見舞われた男は、仰向けに倒れた。そのまま死ね。
 あと一人。
 びびって逃げようとしている茶髪男に手を伸ばす──不意に、何者かに羽交い絞めにされた。

「っのヤロ……」

 振りほどこうと暴れる恭一の耳元で、ひときわ大きな制止の声。

「恭一! 待った!」
「っんだと……! ぶっ殺すっつってんだろッ」
「落ち着け!」
「落ち着けるか! こいつら、こいつらッ……、……あ……、晴喜……?」

 ふと首のすぐ後ろに晴喜の顔があるのに気がついた。
 気がつけば、晴喜に後ろから羽交い絞めにされている。
 周りは人だかりだ。……こちらを見ている。こちらを見ているのは、野次馬ばかりではなかった。久しぶりに見る先輩と、青ざめた顔をしている由利──
 先輩がいるのは分かる。由利と晴喜がいる理由が分からない。

「まったくいきなり電話越しにブッチされてヤバイと思ったらこれかよ……」

 晴喜の拘束が緩んだ。恭一は腕を振り解いて、肩の調子を確かめるように関節を回す。殴った男たちを見ると、一人は路面に伸び、一人はうめきながら座り込んでいる。殴れなかった男はおびえた顔をしてこちらをうかがっていた。目が合うと、さっと視線をそらされた。その姑息な態度に腹が立った。

「……んだコラ! やんのかッ」

 ひい、と男があとずさる。

「恭一、待てって!」

 あわてたように晴喜が間に入ってくる。
 止めに入らなくても、あの男を殴るつもりはもうない。ただ視界に入れたくないだけだ。
 荒々しいため息をつきながら、近くにあった花壇の縁に腰を下ろす。
 野次馬の視線の中に、気遣う視線。顔を向けると、由利と先輩の姿があった。

「……峰岸恭一君」

 先輩が何か言おうとしたので、恭一は顔を背けた。
 聞きたくないし、見たくなかった。自分は悪くない。自分は、悪くない。
 顔を背けた先で、アッパーをくらって伸びていた男が唯一無事だった男に助け起こされていた。気を失っていたが、ようやく意識が戻ったらしい。そのまましばらく寝てればよかったのに。
 しばらくすると、警察がおっとり刀で駆けつけてきた。そろそろ来る頃合だと思っていたから、驚きはなかった。駅前でこの騒ぎだ。警察も飛んでくるだろう。
 恭一は痛み始めたこぶしの様子を見てから、立ち上がった。








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