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 昼休みもそろそろ終わろうかという頃、神山と弓岡は連れ立って喫煙室を出た。
 弓岡はあんな衝撃的な告白をやらかしたのにも関らず、いつもと変わらないちゃらちゃらした様子だ。神山はどこか複雑な気持ちを抱かずにはいられなかった。
 どうして、弓岡はそんな話を自分にしたのだろう?
 さっき言ったように、自分は理解することが難しいのに。弓岡は、そんなに簡単に自分を信じてしまっていいのだろうか。
 ……いや。
 弓岡が自分を信用して話してくれたことだ。それを裏切らないように、弓岡を信じなくてはいけない。それが自分のできることだ。
 風とおりのいい廊下を弓岡と歩いていると、前方から一人の生徒が歩いてきていた。自然な感じの茶色の髪に、利発そうな黒い目、神山ほどではないが身長もそこそこにある。思わず目を引く顔立ちだ。美少年という表現が一番ふさわしいだろう。
「……おや」
 弓岡が隣で小さく声をあげた。……どうやら知っているらしい。教え子か何かだろうか。確かに、この容姿は一目見ればそう忘れられるものでもない。
 彼は両手にファイルを抱えていた。重いわけではなさそうだったが、一人で持つにはいささか苦労する数だ。
 と。
 目の前で、不意に彼がファイルを取り落とした。バランスを崩したのだろう、バサバサバサっとファイルが廊下に散らばってしまう。こうなると大変だ。物を運ぶときできるだけ一回で済まそうとするものぐさな性格の神山は、良く抱えた荷物を取り落としてばらまくことがある。ばらまいた荷物を拾い集めるのも、周りの視線が痛いのも良く知っている。
 神山は急いで、散らばったファイルを拾い上げた。
「あっ……」
 彼は少し驚いたように神山を見上げ、それから何でもないように落としたファイルを急いでかき集めた。ファイルを全部拾い集め、抱えて立ち上がった彼に、神山は拾った一冊のファイルを持ったまま、手を伸ばして抱えたファイルを渡せというジェスチャーをした。
「……え?」
 彼は怪訝な顔をしてこちらを見上げた。
 神山は彼の抱えたファイルを何冊か奪い取ると、少し笑って見せた。
「どこに持っていくんだ? 昼休みもそろそろ終わるし、俺も手伝ってやるぞ」
「あ──先生……」
 彼は困った顔をしたが、やがて頭を下げた。
「ありがとうございます。けど、平気ですよ、神山先生。すぐそこの理科準備室に持っていくだけですから」
 理科準備室? 神山は後ろを振り返り、すぐ近くの教室が目的地だということに気がついた。
 どうやらいらないお世話だったらしい。何となく決まりが悪くて、眼鏡のフレームを指でいじる。
「そ、そうか。じゃ、邪魔をして悪かったな」
「いえ。ありがとうございます」
 神山はそっとファイルを彼に返すと、意味もなく頬を掻いた。
「先生」
「う、うん?」
 彼は微笑んで、わずかに小首を傾げた。
「その白衣、とてもよくお似合いですね」
「あ、ああ……?」
 いきなり、何を言い出すのだろう。
 神山が怪訝に思っている間に、彼は小さく会釈をして行ってしまった。
 言葉もなく、ただぼんやりと彼の後ろ姿を見送る。彼が準備室に入っていったのを確認すると、待っていたかのように隣にいた弓岡が腕をつついてきた。
「何、彼と特別何か話したことでもあるの?」
「い、いや? ……なんだったのか、俺にもよく分からん……」
「ふうん」
 弓岡はしばらく何かを考えるように彼の去った準備室の扉を見ていたが、ふと思いついたように尋ねてきた。
「やっぱり目立つ子だよね、あの子。神山ちゃん、診たことあるんじゃないの?」
「うん? ……いや。保健室には来たことがないと思うが」
「そう。やっぱ、理事長の息子ともなれば専属のお医者さんとかつくのかなー」
 何でもないことのように言った言葉を、神山は思わず聞き返した。
「理事長の息子が何だって?」
「えっ? 神山ちゃん、知らないの?」
 朝方聞いたような言葉を再び投げられ、神山は顔をしかめた。
「知らないから聞いてるんだ」
「あらら。本当にうといのね、神山ちゃんて、世事には。あの子、理事長の一人息子で藤木巽っていうんだよ。ありえないぐらい出来た子で評判。もちろん、成績優秀、スポーツ万能、品行方正、容姿端麗。三拍子どころか四拍子五拍子それ以上揃った恐怖の御曹司」
 口上よろしく、弓岡はテンポよく説明した。実物を見ないで聞いたら、そんな人間いるのかと疑いたくなるが、先ほど見た実物と照らし合わせればなるほどとも言いたくなる。あれは恐怖の御曹司だ。
「……ただねぇ……」
 弓岡は考え深そうな口調になって、沈黙した。見た目だけは真面目そうなので、ひどく思慮深い人間に見える。
「どうかしたのか?」
「え? ああ……うん、別に──」
 弓岡は目を細めて準備室の扉を見つめ、ため息をついた。それからこちらを見上げてニヘラっと笑う。
「あんなのに負けるぐらいだったら、こっちは唾でもつけて確保かなぁ」
「……う、うん?」
 眼鏡の縁を指で押し上げ、弓岡を見つめる。
 そんな神山に、弓岡はふと思い立ったらしく、白衣の襟を両手でつかんだ。
「うわっ!?」
 ぐいっと力任せに顔を引き寄せられて、鼻先で弓岡の声が囁く。
「ちゅぅしていい?」
 魅惑的な色の目で見つめられて、神山は反射的に弓岡を引き剥がした。
「お、おまえ! な、何を一体する」
 白衣の襟を直しながら、言葉が続かず眉根を寄せる。顔が熱い。おそらく赤くなっているに違いない。
 弓岡は声をたてずに笑って、ぽんぽんと神山の肩を叩いた。
「なんて冗談冗談。まあ、気を付けたほうがいいかなってことよ」
「き、気をつける?」
「ほら、男って〜狼〜だから〜。」
 弓岡は大げさに両手を広げて声を大にして言った。
 声を大にして言うようなことでもない……。







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