※ ※ ※


 神山が保健室に戻ってくると、ちょうど予鈴が鳴った。
 後ろ手で保健室の扉を閉め、大きな欠伸をする。いくつになっても食べたあとはひどく眠くなる。
 さて──
 神山は保健室を見回した。あの新任がいない。……何か用があって席をはずしたのだろうか? 昼は彼が見ると言ったから、昼休みをのんびりとってきたのだが──
 保健室は静まり返っている。
 仕方ない、書類の整理でも始めるか……。
 デスクに向かいかけた神山は、途中で足を止めた。三つ並んだベッドの一番右、窓際のベッドにカーテンがかかっている。昼休みをとる前は、カーテンは開いていたはずだ。というより、通常、ベッドを使用していないときはカーテンは開けてある。誰か──使っているようだ。
 神山はデスクの上か保健室利用記録の表をら取り上げ、確認した。今日のベッド利用者は──
 ……いない。
 午前中に一人が使って帰っただけだ。
「何だ、カーテンがかかったままか」
 そう一人ごちて、神山は表を置くとベッドのほうへ向かった。しきりになっているカーテンを一気に開け放つ。紛らわしいから、あけておいたほう……
「うわっ!?」
 ……何だか今日は驚くのが多い日だ。
 ベッドではうつぶせにあの新任が倒れていた。ぴくりとも動かない。枕に顔を埋めて、そのままベッドに横になっている。
 黒い髪はシーツに流れ、濡れているかと思うほどに艶やかだ。
「……おい?」
 何だか……生気がない。
 まさか、急病? 持病? 仮死状態? 死んでるとか!?
「お、おい、大丈夫か!?」
 慌てて首筋に手を当てる。人間にしてはやや低い体温。だが、きちんと脈はあった。良かった、死んでいるのではなさそ……
「……ん……」
 真沢がうなるようなうめくような、そんな声を漏らして、首筋に当てた神山の手首をつかんだ。
「!?」
 思わず手を振り解こうとしたが、うまくいかなかった。
 真沢は細腕にしては信じられない力を発揮して、手首をつかんだまま、仰向けに寝返りをうった。神山はそれに巻き込まれるような形で、腕をとられて前かがみになる。
「うわわ」
 目の前に近づく真沢の顔。閉じられたまぶた。まつげは長い。白磁の肌には、染み一つなさそうだ。触ったらそのまま傷のつきそうな繊細さがある。彫刻のように整った顔つきは、日本人の顔でありながら、彫りが深い。同性の神山ですら、思わず見とれる美しさだ。香水をつけているのだろうか、かすかにすっきりとした香りが鼻先をかすめた。
 校医をしていると知らなければ、モデルをしていると言われてもおかしいとは思わないだろう。スタイルはいいし、顔の作りはこのとおりだ。まあ少し痩せすぎな気もするが……
 ふ…と真沢の閉じられた双眸がゆっくりと開いた。至近距離で目が合った。
「……」
「……」
 沈黙。
 神山は固まり凍りつき、真沢をただ見下ろしていた。こんなところで(ベッドの上だ)こんな体勢(押し倒していると思われても仕方ない)こんな組み合わせ(大男と小柄な男)……これはかなりまずいのではないだろうか。
 対する真沢も寝起きで頭がはっきりしていないらしく、ぼんやりとした瞳で神山を見つめていた。
 互いに、沈黙。
「……うわあっ!??」
 神山はようやく我に返って、慌てて真沢の手を払い、飛びのいた。あまりに慌てていたせいで、勢い余って隣のベッドに飛び乗るような格好になってしまった。
「そ、その、すまん、た、他意は……!」
 むくり。
 真沢が身体を起こした。寝起きのぼんやりした目で、神山を凝視する。彼の視線に息苦しくなって、神山は咄嗟に自分が飛び乗っていたベッドに身を横たえた。
 ばすっと大きな音をたてて横になれば、埃が舞い散った。
「お、俺も寝るつもりだったんだ! ぐ、偶然だな!」
「……」
 ……我ながら何を言っているのか。
 真沢も呆れているのか、黙ってこちらを見つめていた。
「……」
「……」
 沈黙。
 神山は自分がとった意味のわからない行動にそろそろ居たたまれなくなってきて、顔をしかめた。ああ、何を言って何をやってるんだろう。保健室のベッドで、校医がしかも向かい合って。
「偶然、……ですね」
 寝起きのかすれた声で真沢が呟いた。
 偶然? 一瞬、何の話か分からなかった。しばらく考えて──ようやく、神山は自分が言った意味の分からない言葉の受け答えなのだと気がついた。
「ですが、眠るときは眼鏡を外したほうがいいと思います。その眼鏡、ずいぶん高そうですから」
「あ、ああ……別にこれは……そんなに。ただフレームは良く踏むことがあるから、丈夫なのにしてる……」
 更に墓穴を掘ってしまった。
 進んで自分の評価を落とすようなことばかり言って、自分はバカじゃないだろうか。ただ言っていることがすべからく本当のことというあたりが情けない。踏んで壊した眼鏡の数は実に二桁にのぼる。最近はもう慣れてしまったもので、踏むことを回避しようと心がけるのではなく、もともと丈夫な眼鏡を買おうという志向に移ってしまった。今ではフレームなしの眼鏡など怖くてかけられない。おそらく一週間もしないうちに踏んで壊すだろう。
 真沢は神山の話を聞いても笑うような素振りを見せず、何か考えるような顔をした。
「神山先生の眼鏡を見ていて今、思ったのですが──」
「な、何を?」
「眼鏡は不便ですが、扱いは楽ですね。私も眼鏡にしようかと少し」
 真剣な面持ちで言われて、神山は布団に頬をつけたまま、何故か何度もうなずいた。
「あ、ああ、眼鏡は楽──」
 神山ははたと我に返った。
 ……眼鏡にしよう? ということは、真沢は今コンタクトなのか。
 神山の思ったことが伝わったのか、真沢はあごに手をやりながら何か考えこんでいるふうに答えた。何か他のことを考えているようだ。視線はどこか違うところを見ている。
「ええ。コンタクトなんです。──ところで先生」
「う、うん?」
 布団に頬をつけたまま、やや不自然な体勢で聞き返す。眼鏡のフレームが布団にあたって眼鏡が変なふうに歪んでいたが、何となく余計なことをして更に墓穴を掘りたくなかった。神山にもちょっとの年長者の威厳というものはある。
「先生は見た目どおり、ベッドの中でも優しそうなタイプですね。見た目に反して野獣タイプかと思っていたのですが。遠目でも先生が男らしい顔つきをしているのは明らかですが、近くで見ると、より一層男らしく見えて惹きつけられます」
「……………………」
 神山は枕に顔を押し付けた。眼鏡のフレームが顔にあたって痛かったがそれどころではなかった。
 ああ。顔から火が出てる気がする。
「先生? どうかなさいましたか」
「……」
「ああ、私の言うことは嘘ではありません。本当にそう思っています。さっき目が覚めたとき、そう思いました。先生の目が思った以上に」
「…………」
「先生?」
「……勘弁してくれ……」
 枕に顔を押し付け、神山はようやくそれだけを言った。今、顔をあげたら大変なことになる。
 神山はなけなしの年長者の威厳を保つべく、更に強く枕に顔を押し付けた。
 そのとき、不意にガラガラガラと保健室のドアが開く音がした。
 衣擦れの音──ベッドから真沢が降りたようだ。カーテンが揺れる音を聞いてから、神山はもそりと枕から顔を離した。……少し息苦しかった。
 全くバカだ。
 神山は身体を起こし、眼鏡の位置を直ながら頬に手を当てた。やはり熱い。赤くなっているのは間違いない。あの新任と付き合っていくのなら、あのぐらいの言葉は笑って流せるようにならなければ無理だ。
 ため息が出た。
 神山は乱れた髪を適当に手ぐしで整えて、ベッドを出た。地獄に仏というか、何というか──保健室の来訪者に二度も助けられたというわけだ。そのうちの一度目は弓岡であまり嬉しくない仏だったが。……まさか、今回も弓岡ではあるまい。
 ベッドを出て行こうとしたとき、真沢のものではない声が聞こえた。






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