「……先生は?」
 保健室に来た生徒だろう。いやしかし、この声はどこかで聞いた覚えが──
 ベッドを出て、外に神山が姿を現したとき、保健室の来訪者は「あ」という顔になった。
「神山先生──」
「……うん? ああ、君は……ええと、確か」
 来訪者は偶然にも、昼休みに廊下にファイルをぶちまけた──弓岡の談で恐怖の御曹司だといわれた、あの理事長の息子だった。名前は確か、藤木──だったか。
「ええと、藤木……だったか…な」
 呼んでみて、神山ははっとした。蘇洸学園の理事長の息子ともあろう彼を、軽々しく呼び捨てにしてはまずかったのはないか……。
 しかし彼はそんな神山の不安を全く見抜いた様子もなく、「あれっ」と驚いた顔をして、それから大人びた微笑を浮かべた。
「何だ、僕のことを知っていたんですか」
「あ、ああ、まあ、……その、な」
「つまらない噂話を聞いたんですか? いろいろ、言われているみたいですから」
 藤木は大人びた──というよりかは、もう慣れてしまったように苦笑した。顔つきから話し方、仕草もほとんどが大人びていて、制服を着ていなければ生徒には見えないだろう。
「先生が言ったとおり、僕の名前は藤木巽です。……でも、先生にこんなに早く名前を覚えてもらえたから、たまにはこの身分も悪くないですね」
「あ、ああ……?」
 藤木は顔に似合わず悪戯っぽく笑って、右手の人差し指を軽くあげて示した。
「先生、切ってしまったんですが……絆創膏、いただけませんか」
「あ、ああ、分かった」
 遠目だから分からなかったが、確かに人差し指に赤いものが見えた。神山は慌てて救急箱がしまわれている棚まで向かい、ガラス戸を開けて絆創膏を取り出した。ついでにティッシュと消毒液を取り出す。
 藤木は、部屋の隅に置かれていた丸椅子を引き出して座った。
「ついさっき、不注意で切ってしまったんです。そんなに深くはないんですけど、物を書くとき大変で」
 そう言いながら差し出してきた藤木の指を手にとって、診察する。藤木の言うとおり、切り傷だが深く切っているわけではなさそうだ。血が出ているが、もう止まっている。だが、右手の人差し指は確かにペンが持ちにくいだろう。
 声を立てずに、藤木が笑った。
「ど、どうかしたか?」
「いえ……先生の手、やっぱり大きいなと思っただけです。ごつごつしてて──暖かい」
「う、あ、ま、まあそうか……」
 なんと返せばいいのか分からなくなって、神山は曖昧に笑ってごまかした。困ってしまった自分を隠そうと、慌ててティッシュに消毒液を染み込ませて、藤木の傷口に当てた。
「っ……」
 藤木が顔をしかめた。
「あ、わ、悪い、しみたか?」
「い、いえ……しみるのは仕方ありませんから……平気です」
 利発そうな黒い瞳が笑った。なんだかどっちが年上か分からない会話だ。情けないのは圧倒的に神山のほうである。
 ──今日は厄日かもしれない。
 また変なことをしては大変と、神山は手早く傷の手当てをすませた。
「これでもう大丈夫だ。絆創膏はこまめに変えるんだぞ」
「はい。ありがとうございます」
 藤木はにっこり笑った。造作が整っている分、笑うとぱっと花が咲いたように明るく見える。これで勉強も出来て運動も出来て家柄も良し、と来れば、弓岡の言っていた恐怖の御曹司との談はずばり的を射た表現だ。
 恐怖の御曹司。事実存在していたとは──二次元の話かと思っていた。
「先生?」
 ふと、藤木が真剣な顔になった。
「どうした?」
「先生、ベッドで何してたんですか?」
「ベッド?」
 どきりとした。
 まさか、真沢との微妙な(というよりは間抜けな)会話を聞かれていた……なんてことは……。そうとしたら、もう保健医の面目丸つぶれだ。
「先生、さっきベッドのほうから出てきたから──何かしていたのかなと思ったんですが」
「ああ、そう。そういうこと……別に、何も。……寝てた……かな……」
 胸中ほっと安堵する。どうやら醜態を晒さずにすんでいたようだ。とりあえず適当に笑ってごまかしておく。
 藤木はしばらく神山を見つめ──考え込むように尋ね返した。
「そういえば、真沢先生もベッドから出てきましたけど──まさか、ベッドであんなことはしてないですよね」
 あんなこと?
 聞き返すより早い反応で、真沢が小さく息を飲んだのに気がついた。
 そういえば、さっきから真沢は黙ったままだ。元々話好きではないようだが、沈黙がいやに重い。そのうえ、なんだか顔色がひどく悪いように見える。
 体調が悪いのだろうか。ああ、だから、ベッドで休んでいたのかもしれない──
 図らず真沢の顔をじっと見つめていたらしい。真沢は神山の視線に気がつくと、決まりが悪そうに背を向けて薬品棚に向かった。白衣のポケットに手を入れて、ガラス戸越しに薬瓶を見ている。だが、その背中にたっぷり神山の視線を感じ取っていることは、ガラスに映る真沢の視線の動きでよく知れた。
「真──」
 神山が声をかけようとした瞬間、藤木の言葉が続いた。
「そうだ、先生? 今年の文化祭、先生も見て回るんですか?」
「文化祭?」
 藤木に向き直り聞き返す。
「文化祭ですよ、先生。今月です」
 文化祭──ああ、そういえばもうそんな時期なのか。神山は無意識に壁にかかったカレンダーを見た。今月の25日だ。数えてみれば、あと二週間ほどだ。
 藤木は神山が聞き返したのを、別のように受け取ったらしく、改めて言葉を補った。
「ほら、先生、去年はずっと保健室にこもりきりでしたでしょう? だけど今年は、真沢先生がいらっしゃるじゃないですか。だから今年は文化祭、見て回れるのかなと思ったんです」
「あ、ああ──そういうことか。まあ、ここで常駐しとくのが保健医の仕事だからな……見て回るというのはどうだろうな。まだどうするか何も決めてないし、分からないが」
「そうなんですか……」
 藤木は少しため息をついた。
 別に神山が文化祭を見て回れないからといって、藤木が憂鬱になる必要はないと思うのだが──神山がずっと保健室にいなければならないことを自分の不幸のように嘆いているのだろう。顔も良くて文武両道、家柄良しで心優しい……これでは恐怖の御曹司どころか、最恐の御曹司だ。ここまできたら、なんだか羨むどころか軽く呆れてしまう。天は二物を与えず──とはよく言ったものだ。
 藤木は椅子から立ち上がった。
「あ、じゃあ僕──今、授業中なのでそろそろ帰ります。手当て、ありがとうございました」
「ああ。そうだな。じゃあ、指、ばい菌が入らないようにな」
 藤木は「ありがとうございます」と頭を下げて、礼儀正しく保健室を出て行った。
 彼が出て行ったあとをしばらく見つめ、神山はほー、とため息をつく。
 顔も良くて文武両道、家柄良しで心優しい……そのうえに礼儀正しい。これでは最恐の御曹司どころか──
 ……本当に人間だろうか。
 軽く呆れていた神山の耳に、やけに大きくガラス戸のしまる音が聞こえた。
 見やると、真沢が薬棚の戸を閉めたようだ。しかし、その横顔の顔色はひどく悪かった。
「真沢先生……」
 声をかけて、ふと思い出した。そういえば、改まらずに、と言われた気がする。しかし、だからといって急になれなれしくしゃべっても──
 薬棚の前に立っている真沢の顔色はひどく悪い。なんだか今にも倒れそうな顔色だ。
 ……本当に大丈夫なのか?
 急に心配になって、神山は真沢に近寄った。
「体調が……悪いのか?」
「え……」
 真沢が驚いたようにこちらを見つめた。はじめて見る、らしくない表情だ。今日会ったばかりだが、それでもらしくないと分かるほど、真沢に似つかわしくない表情だった。
 神山は──ちょっと困ってしまった。
「い、いや、わ、悪い。馴れ馴れしい話し方を……その、してしまいました」
「あ……ああ、いえ、そうでは……。別に……それで結構です……。私は先生に敬語を使われるような人間ではありません……」
「使われるような人間ではない……?」
 眉を寄せて聞き返す。しかし、真沢は視線を伏せて、答えなかった。
 相変わらずひどい顔色のまま、神山に背を向けようとする。その背が心もとなく揺れたような気がして、神山は慌てて肩を支えた。
「!」
 びくっと真沢の肩が震えた。
「こ、…神山先生、一体何を」
「あ、い、いや、その、体調が悪そうだから……も、申し訳ない」
 大きなお世話だったらしい。真沢の非難するような視線に、神山は慌てて手を離した。
「……」
 真沢は何か言おうとして──しかし何も言わず目を伏せた。そのまま、何でもなかったように離れてデスクにつく。
 余計なことをしてしまうのは自分の悪い癖らしい。
 自己嫌悪のため息を一つついて、神山は眼鏡の位置を直した。
「……平気です」
 遅れて、真沢の声。
「え?」
 聞き返す。何の話かわからず混乱した。彼との会話は、よく行き違っている。テンポがずれているのか、元々相性が悪いのか──人間関係にあまり悩んだことのない神山だったが、このときばかりは後者のような気がした。
 真沢はデスクに書類を広げながら、ついでのように続けた。
「ただの寝不足ですから、先生が心配してくださる必要はありません。お心遣い、ありがとうございます。本当に平気ですから」
「……」
「……その」
 真沢は手を止めて、神山を上目遣いに見た。
「その……私は弱そうに見えるかもしれませんが、本当は強いです」
 言い返せず、黙り込む──真沢は困ったようだった。眉を寄せて顔を伏せる。
「腕相撲では負けたことはありません」
 神山は二回ほどまばたきして──がりがりと頭をかいた。
「ああ、まあ、その──」
 神山は気の抜けた笑い声をたてた。
「今度機会があれば、勝負しますか。私も弱くはないですよ」







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