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 文化祭も残すところあと二日と迫った日、蘇洸学園の放課後は文化祭に向けての準備でてんやわんやだった。
 生徒の半数は文化祭準備で放課後遅くまで残り、教師も教師で文化祭の打ち合わせなどで職員会議を執り行う。もちろん、その会議が終わっても、生徒達が残っているのなら教師は幾人か残っていなければいけない。
 神山も真沢も、この日は文化祭前夜ということでいつもより遅い時間まで、校内に残っていた。
 神山と真沢はというと、それなりにうまくやっていた。神山自身、真沢の性格が少しずつわかってきた上に、真沢もそれなりに神山のことを先輩として信頼しているようだったから、円満な関係を築けるのは至極当然の成り行きではあった。元々、人好きのする神山には、それなりにうまく人間関係を持続させるスキルがある。今まで生きてきた中で、話も出来ないほど劣悪な関係に陥ったのは片手で数えるほどしかない。
「神山先生」
 真沢が薬棚の薬瓶の整理をしながら、声をかけてきた。
「んー……?」
 神山は保健室利用者名簿の整理をしながら、生返事な受け答えをした。
 とりあえず、こちらが話す際には話題をどうするのか考えなくてもいいぐらいには親しくなった。相変わらず真沢の話し方は淡々としているが、それも悪気がないことはすでに知れている。そういった意味では、かなり仲良くなったといっても大げさではないだろう。
「先生は、文化祭、どうなさるんですか」
「どうなさるって……?」
「見て回ったり……するんですか」
 前にも聞かれた質問だ。神山は作業の手を止めて、薬棚に向かう真沢の横顔を見た。真沢の顔は、別段、変わったところはない。
「そういや、そんなこと藤木も聞いてきてたな……。まあ、彼にも言ったが、普通通り、いつもの仕事だな」
「……」
 真沢の薬瓶をしまう手が止まった。何かを考えている沈黙。ややして、また作業を始める。
「そうなんですか……」
「どうかしたのか?」
「いえ」
 真沢はゆるく、頭を振った。何でもないとは言ったが、その顔は浮かない顔だ。
「……ずいぶん、浮かない顔してるが……」
「……」
 真沢は軽く笑って、「いいえ」といなした。しかし何か気にかかることがあるのは、その浮かない表情でよく分かる。
 神山は困って、視線をさまよわせた。何となく、手持ち無沙汰な沈黙が保健室に降りる。
 それなりに親しくはなったが、その親しさは、真沢が黙り込んでしまうと途端に崩れてしまう脆弱な関係でもあった。つまり、神山はまだ、真沢が何を考えているのか推し量るほどに真沢のことを理解できているわけではなかった。出会って二週間弱で相手のことを理解できるはずはないのだが、真沢相手だと理解することはひどく難しいことのように思われた。
 手持ち無沙汰で──さりとて再び仕事にとりかかる雰囲気でもなく──神山は眼鏡をとって、袖口でレンズを磨いた。
「……先生」
 語尾を少しあげて、真沢は口を開いた。
 視線は薬棚のガラス戸に向けたままで。何か複雑な哲学上の問題を考えているような顔つきだったが、神山にはその苦悩が何なのか、見当もつかなかった。
 気の利いた相槌を打てず、ただ黙って話の先を促す。真沢は神山の下手な会話術にも辟易した様子もなく、自分のペースで続けた。
「先生は、文化祭や学園祭をどのように過ごしてきましたか」
「どのように……?」
 それは勿論、保健医なのだからやっぱり保健室に常駐して、生徒の様子を看ていただけだ。別に変わったことは──していない。真沢がどういった意味で聞いてきているのか、良く分からなかった。これは、自分の、保健医としての勤務態度の真面目さを問われているのだろうか。……確かに、このタバコくさい身体とものぐさな性格では、保健医としての能力を疑われても仕方のないことかもしれない。……いや、それ以前にこの無精ひげが問題だろうか。いや、……
 何かの一つ覚えのようにレンズを磨きながら、あらゆる可能性を挙げてみる。挙げてみたら、明らかにクビになりそうなことばかりで神山は落ち込んだ。
 ──ああ、良く続けていられたな、保健医。
 真沢の問いに答えられず長いため息をつく。ああ、全くやれやれだ……
 真沢は神山のため息を、悪い方向に捉えたらしかった。少し暗い顔をしてうつむく。
「私は、あまり好きではありません。……つまらない話ですけれども」
「あ……? あ、ああ、いや、そういう……すまん、ちょっとへこんでただけで……、ええと、……うん? ……好きじゃない?」
 慌てて言い繕い──真沢の不可解な言葉に気がついた。
 ……ひょっとして、また会話が行き違っているのでは。
「こういう前日の雰囲気、あまり好きじゃないんです。……落ち着かなくて。何となく、そんなふうな気分、思い出してしまったものですから」
 文化祭や学園祭──というのは、学生時代の話だったのか。てっきり、保健医として過ごす文化祭や学園祭の話だと思っていた。しかし良く考えれば、真沢は新任なのだから、保健医として過ごす文化祭はこれが初めてのはずだ。
 神山は磨きすぎた眼鏡をかけて、位置を直した。無精ひげのあごをひとなでして、尋ねる。
「にぎやかなのが嫌いだとか……?」
「……」
 真沢は手にしていた薬瓶を丁寧にしまい、ガラス戸を閉めた。白衣のポケットに手を入れて、振り返る。整いすぎて近寄り難い顔を何故か複雑そうにゆがめる。
「……ええ、まあ。……そんなところです」
 真沢は言い終わったあと、疲れたようにため息をついた。
 その仕草がやけに疲れきっていて、ひょっとしてあの苦悩の表情はこの疲れからきているのではないかと神山は思った。何の根拠もなかったが──ただ、何となく、その疲れが少し痛そうに見えた。
 きっと、真沢の話し方や口調では、思わぬ受け取り方をされて疲れることも多いに違いない。おそらく、その理解してくれない相手には、自分も入っているのだろう。
 悪いことをしている──と神山は反省した。
 真沢が話してくれるのに、それをきちんと理解できていないのだ。十年ほども長く生きているのに、情けないことこの上ない。
「その──すまん」
 短く謝る。真沢は珍しくきょとんとした。
「……何がですか?」
「い、いや、その……俺はどうも、人を理解するということが苦手らしい。カウンセリングや、心理学のペーパーテストはそれなりに見られる点を取れたが……。こういう、重要なことができていないのは、だめだ」
「……は?」
 真顔で聞き返された。
 神山は真面目に言い返す。
「だから、君も嫌だとは思うが……思ったことは、これでもかというぐらいにはっきり言ってやってくれ」
「……神山先生」
 真沢は何か言おうとして──しかし何かを諦めたらしく、小さく頭を振った。
「先生が愛される理由が、今良く分かった気がします」
「う、うん?」
 愛される? いや、そういう話ではなくて──
 真沢は他所を見ながら、淡々と続けた。
「確かに、先生が相手なら、挿入されてもそう後の支障にはならなさそうですね。誠心誠意、大切に扱ってくれそうな気がします」
「そっ……!」
 反射的に立ち上がる──慌てたせいで、椅子が倒れた。
 ダメだ。顔が熱くなってくる。急いで腕で頬を隠して、神山はぶんぶんと頭を振った。
「な、なな、何を、何で一体どうしてそういう……っ」
 真沢の視線が戻ってきた。じっと神山の様子を観察している。あごに指を当てて、小首を傾げる。何か考えているようだ。
「“一体何故、どういうつもりでそういうことを言えるのか”……と言いたいんですか?」
「そ、そういう、……う、あ、う〜」
 ああ、だめだ。頭が真っ白になっている。何の前置きもなく、いきなり言われた衝撃が更に混乱を呼んでいる。油断していた。混乱している。格好悪い。もう泣きそうだ。
「どういうつもりも何も──」
 真沢は言葉を選ぶように目を閉じた。知的な仕草で、指先をこめかみに当てる。美しい色をした黒の瞳を開き、神山を見つめる。
「もし先生を相手に性交することになった場合、後々、後悔はなさそうだという認識をもったというだけのことです。始める前も、終わってからも、やさしく気遣ってくれそうだと思っただけです。実際、過去そうしてきたのではありませんか?」
「〜〜〜!」
 いろんな過去が脳裏を駆け巡る。神山は頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。しゃがみこむ際に、デスクに強く肘をぶつけたが、痛みを覚えている余裕はなかった。とにかく頭がどくどくしていて何が何やら良く分からない。
「先生? 誤解しないでください。もしも、という可能性を示しただけですから。先生と私がそのような関係に陥ることはありません」
 そんなことを言われても。
 彼はこの自分の反応を面白がってわざと言っているのだろうか。まさか、弓岡ではあるまいし──いやしかし。
 頬がありえないぐらいに熱い。これではゆでだこだ……。
 そのとき、まさに嫌なタイミングで保健室の扉が開いた。
「先生、いらっしゃいますか……」
 何もこのタイミングで来てくれなくても、もっと早くに来てくれればまだ助かったのに。この間は保健室の来訪者に助けられたが、柳の下にいつもドジョウはいないらしい。
 しかし情けないところを見られては大変と、神山は最後の意地で急いで立ち上がった。
 ガンっ!
 立ち上がる際に、デスクで思い切り頭をぶつけ、神山は最後の意地はどこへやら、頭を押さえてうずくまった。
 ……バカで痛い。
 あまりに強くぶつけたせいか、涙が出た。
「先生? どうしたんですか?」
 頭上から、保健室を訪れた生徒らしい声がした。この声は聞き覚えがある。そう、藤木だ。
 頭を押さえたまま、上を見ると、そこには案の定、藤木がこちらを覗き込んでいた。
「あ、ああ、その……ちょっと、な……」
「なんだかものすごい音がしましたけど」
 はっきり頭をぶつける音を聞かれていたらしい。神山は眼鏡の位置を直しながら、ことさら何でもないような顔をして立ち上がった。本当はまだぶつけたところがじんじんしていたが、意地で我慢した。
「な、何でもないぞ。ただちょっと机の整理をしていたところだ。……それより、どうかしたのか? 怪我か?」
「えっ、ええ、はい。ちょっと……すりむいてしまって」
 藤木は制服のカッターシャツの袖をめくりあげて、肘を見せた。そこには、薄く血が滲んだ擦り傷があった。
 神山はその傷口を見ながら、小首を傾げた。
「どうしたんだ、この怪我。制服の上からこんな擦り傷がつくとは──」
「ええ、ちょっと。文化祭準備で腕まくりをしていたんです。そこをぶつけてしまって」
「ああ、なるほど……。ちょっと待ってろ」
 神山は救急箱が入った棚に手を伸ばし、いつか藤木を手当てしたように、ティッシュと消毒液、絆創膏を出した。
 この優等生は、ぶつけたり切ったり、他が優れている分、少しおっちょこちょいなようだ。神山自身、決して優等生とはいえない学生だったせいか、すべて完璧の優等生よりかは、多少欠点がある方が親近感が持てる。本音はそうだったが、鹿爪らしい顔をして、藤木に注意する。
「ぶつけたり切ったり、気を付けないとだめだぞ」
「えっ?」
「前は指を怪我してただろう?」
 指摘してやると、何故か藤木は気恥ずかしそうに笑った。
「覚えていてくださったんですか……先生、忙しいからそんなことはすっかり忘れていると思ってました。先生の中では、僕は数ある生徒の中の一人でしょうから」
「うん? ハハハハ、まあ、生徒の数は多いがな。その中で保健室に来るのはその一部分だ。保健室に来る生徒全員を覚えているわけではないが、それなりに顔は見てるぞ」
 擦り傷を消毒し、ティッシュで雫を拭き取る。大きめの絆創膏を患部に貼り付ける。日頃は間抜けなことばかりしているが、さすがに手当てはそれなりに済ませられる。これでも一応、保健医だ。
「……そうなんですか」
 藤木は何か考えているような口調で呟き、手当てが終わった肘をカッターの袖で隠した。
「でも先生は、先生がどれだけ生徒に思われているか、分かっていないでしょうね」
「う、ううん?」
 言っている意味が良く分からず聞き返す。しかし、藤木は「何でもありません」と明るく笑って首を傾げた。華やかなアイドルのように、やや気取って斜めに神山を見上げる。その気がある人間ならついあらぬ期待をしてしまうような、わずかに甘えた笑みが口元に浮かんでいる。
「先生はとてもいい先生だと思いますけど、ちょっと鈍いですね?」
「に、鈍い?」
 藤木は笑ってはぐらかした。ちらりと真沢の方を見て、また神山を見る。
 それから、ぺこりと丁寧に頭を下げた。
「手当て、ありがとうございました。じゃあ、僕、戻ります」
 ぱっと花が咲いたような明るい笑みを残して、藤木は保健室を出て行った。ガラガラガラと扉が閉まるのを見てから、神山は頬をかきながら首をひねった。何を言われたのか、良く分からなかった。
「全く、最近の子は良く分からんなぁ……」
 優等生の不明さに困ったような愛想笑いを浮かべ、真沢を見やる──笑っていなしてくれると期待したが、期待に反して真沢はどこか一点を見つめたまま、固まっていた。顔色は著しく悪い。
「体調……悪いのか?」
 心配してうかがうように声をかけると、真沢はびくっと肩を震わせて顔をあげた。
「え、……あ、いいえ。すみません、何かおっしゃいましたか?」
「い、いや、別に大したことは言ってないが……顔色が悪いから、大丈夫かと思って。気分が悪いのか?」
 「え、ええ」真沢はぎこちなく何度もうなずいた。「大丈夫です。少しほかのことを考えていただけですから。少し用事があるので職員室の方、行ってきます」
 真沢はそう言うと、逃げるようにして保健室を出て行った。
 残された神山は頭をかいて──困惑気味のため息をついた。
 ……近頃の若者は、良く分からない。







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