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「今日はここまでにしておくか」
 神山は独りごちて、書類から目を離した。大きく伸びをして、椅子の背もたれに背を預ける。
 勤務時間はとっくに過ぎている時間帯だ。窓の外の景色はすっかり夜で、星が輝いている。時計を見れば八時半、壁掛け時計を見やると、藤木がきてから随分と経っていた。しばらく前までは、生徒の声が聞こえてきていたが、そすがにこの時間では全員帰っただろう。職員室の方にはまだ何人か教員が残って仕事をしているかもしれないが、校内はシンと静まり返っている。
 神山は立ち上がり、白衣を脱いだ。ロッカーに白衣をかけると、帰宅の準備を始める。
 薬品棚のガラス戸に鍵を下ろしたところで、神山は、気がかりそうにちらりと真沢の無人のデスクを見つめた。真沢は用事があると保健室を出たまま、まだ帰ってきていなかった。あまりに遅いと心配になったのは数十分前で、まさか体調が悪くてどこかで困っているのではないかと思い、職員室へ内線で連絡してみたが真沢は来ていない、とのことだった。
 用事があると職員室に向かったはずの真沢──しかし職員室には姿を現していない。一体、どこをほっつき歩いているのだろうか。真沢の性格を考えれば、仕事をさぼってぶらぶらしているとは思えないが……。
「どこに行ったんだろうな……」
 保健室利用者名簿をデスクに置くと、くたびれた黒の鞄を椅子の上に置く。
 神山は、髪をかきあげながらため息をついた。黒縁眼鏡を外して、こめかみを揉む。ついでに眼鏡のレンズを袖で拭う。もう一度、気がかりそうに真沢の席を見る。デスクの下には、真沢の鞄が立てかけてある。
 鞄がまだあるということは、ここに戻ってくる意志はあるということだろう。保健室の鍵をデスクの上に置いて帰っても良かったのだが、何となく、それはしづらかった。何かあったのではないかと少し心配だ。生来、心配性の気がある神山は、ちょっとのことでも最悪の場合を考えてしまう癖があった。
 まさか、体調が悪くなってどこかで参っていたら──
 そう考えると、相手がたとえ真沢でなくともそわそわと落ち着かなくなってくる。心配性の上、義理堅い神山は、そんな想像をなかったことしてさっさと帰途につくことなどできなかった。
 もう一度、内線で職員室に電話してみようかと思い立ったとき、職員室の扉が開いた。
「……あ、せ、先生……」
 姿を現したのは、真沢だった。白衣もまだまとったままだ。どこにいたのか、顔色はひどく悪く、その上神山がまだ残っていたことが予想外だったのか、ひどく驚いていた。
「どこに行ってたんだ。職員室の方に連絡しても、いないって言われて……顔色が悪いが、体調が悪いのか? 無理してないか?」
「え……あ、……い、いえ、私は大丈夫です。顔色が悪いのは、生まれつきですから」
 真沢はぎこちなく、頭を振った。デスクへ歩み寄ると、白衣をのろのろとした手つきで脱ぐ。大丈夫だと言っているが、その顔色はどう見ても大丈夫そうではない。
 熱があるのかもしれない。なんだか動きも随分、大儀そうだ。
「大丈夫……なのか?」
「大丈夫です。平気です」
 そう言う真沢は、何故かこちらを見ようとしなかった。やはり、体調が悪いに違いない。
 神山は無意識のうちに、手を伸ばして真沢の額に手のひらを置いた。
「せ、先生……!?」
 驚いてあとずさる──脱ぎかけの白衣もそのままに。見開いた知的な黒い瞳は、激しい動揺に揺れていた。
「な、何をなさるんです……」
「え、あ、いや、その、……熱が、ないかと……」
 思っていた以上の反応を返されて、神山は急に気恥ずかしくなって慌てて手を離した。頬が赤くなりそうな予感に、急いでもっともらしい顔を作る。
「ま、まあ、ええと、その、熱はなさそうだな。……ちゃんと物は食べてるか? 夜もちゃんと寝てるか?」
 触れた額は熱くなかった。熱はない。神山はわずかに熱くなった頬をこっそり手の甲で冷やしながら、原因を考えた。貧血、風邪、それか……悩み?
 真沢は呆れたのか──小さなため息をついた。
「神山先生。私は本当に大丈夫です。……ただ少し、気がかりなことがあるだけです」
「そ、そうなのか? 本当に体調が悪いんじゃないのか?」
 真沢はこめかみに指をあてて、わずかに視線をうつむけた。
「……ええ。少し考えることがあるだけです。……先生。その──あまり心配なさっても疲れるだけですよ。私は見た目より、図太い人間ですから。心配は、ご無用です」
 脱ぎかけだった白衣を脱いで、畳む──しかしその途中で手を止めて、神山を見た。
「先生。……忘れていました。先ほど、藤木君が先生を呼んでほしいと私に言付けを。屋上で……待っているそうです」
「藤木? ……こんな時間にか?」
 神山は壁にかかった時計を見た。八時半をとっくに過ぎている。生徒は完全下校したはずだが──
「ええ、私も彼がどうして校内に残っているのか疑問でしたけれど……とにかく早く伝えてくれと言うので。何か大切な話があると言ってましたが」
 大切な話……? 心当たりがない。藤木に個人的な話があるとは思えないが──。
 まあ、待っているというのなら早く行った方が良さそうだ。こんな時間まで生徒が残っているということにも問題がある。一言、注意もしておかなければ。
「分かった。わざわざ伝えてくれてありがとう。今から行ってこよう。ええと、悪いが、保健室の戸締りは頼めるか?」
 鞄を取り上げ、デスクの鍵を目で示して、頼む。しかし、真沢から返事はなかった。怪訝に思って真沢を見る。
 暗い顔をして、何か考え込んでいるようだ。気がかりなことがあるとは言っていたが、かなり深刻なことなのだろうか。
「え、ええと──」
 もう一度同じ事を言おうとしたが、その前に真沢がハッと我に返った。
「え、あ……ああ、はい。戸締り……ですか? 分かりました、やっておきます……」
 何か考え込みながら、真沢は上の空といった感じでうなずいた。
 神山は少し心もとなく思ったが、藤木を待たせるわけにもいかなかったので、軽く会釈して保健室を出た。







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