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 神山が屋上へ出ると、そこはすっかり夜の闇が降りていて、階段室からこぼれてくる照明だけがあたりを照らしていた。夜空は星がまたたき、雲は一つもない。月は満月に遠い形をしている。
 周りをぐるりと囲む夜景は絶景とは言いがたかったが、点々と散らばる建物の光が綺麗だ。
「──先生」
 前方のフェンスに、藤木の後ろ姿があった。階段室の明かりに照らされながら、彼がゆっくりと振り返る。吹き上がる風に彼の髪が舞い、芸能人のポートレートのように見えた。それとも、腕のいいカメラマンが撮った、写真集に寄せる一枚かもしれない。なんにせよ、彼が美少年であることには異論を差し挟む余地はなかった。
「待っていたんです、先生。来てくださって嬉しいです」
「藤木……」
 嫣然と微笑む彼は、息を飲むほどに美しかった。華奢な体つきも、白い肌も。光源のせいでよく分からなかったが、頬が少し赤いようにも見えた。
「藤木、もう下校時刻はとっくに過ぎてるぞ。家の人が心配する。早く帰りなさい」
「先生」
 藤木は唇に指をやって、考え込むような仕草をした。それから、やがて胸元に手を当てる。
「僕が先生を呼び出したのは、そんなお小言を聞くためじゃありません。……家の人? 残念ながら、僕を案じるような人は家にはいませんよ。誰一人。ありがちな冷え切った家庭です」
 藤木は口元だけで笑った。悲しさや淋しさといったものはなかった。ただ本当のことを言っただけ、という笑み。
「でも……そうやって僕を案じてくださるのは、先生だけです。本当に案じてくださるのは。……先生だけだ」
「そんなことは──」
 藤木を案じているのは、きっと他にもいる。藤木が気がついていないだけだ。
 それを言おうとしたが、神山の言葉は不意に吹きぬけた強い風にさらわれて消えた。思わず髪を押さえ、目を細める。藤木が悲しそうな顔をしたのが、視界の端に映った。
「でも、いいんです──」
 風の音に紛れて聞こえる、藤木の声。耳を澄まして、彼の言葉を聞き取ろうと心持ち身を乗り出せば、吹きぬけた強い風は走り抜けていった。
「でもいいんです。僕に先生がいれば。先生がいさえすれば。……先生。僕は先生が好きです。先生は僕を受け入れてくださいますよね……?」
 凪いだ闇夜に、藤木の告白が強く響いた。
 聞き逃すことも出来なかったその告白に、神山は驚いて目を見開いた。驚いて言葉を返せない神山に焦れて、藤木が訴える。
「先生、僕は先生が好きなんです……!」
 眉を寄せて、叫ぶように告白される。耳を疑えなかった。はっきりと──聞こえた。
 神山は落ち着かなく視線をさまよわせて、眼鏡の縁を指で押し上げた。
「そんな冗談は」
「冗談なんかじゃありません! 先生は僕が冗談でそんなことを言っていると思っているんですか。わざわざ、こんなところに呼び出して? 僕はそんな酔狂じゃありません!」
 神山は、どう返せばいいのか分からなくなって、退路を探した。この教諭生活何年間、こんなことを生徒に面と向かって言われたのは初めてだった。誰か分からない相手から、手紙で告白されたことは数度ある。バレンタインもしかりだ。しかし、それは思春期にありがちな暴走で、通り過ぎれば酔いが覚めるものだ。男子校に勤める保健医として、それぐらいは理解しわきまえてきた。
 ……しかし。
 こんなにはっきりと、想いを伝えられたことはなかった。それも面と向かって。
「その、藤木。そういうのは、一時の──」
「気の迷いとでもいいたいんですか。だけど僕は本気だ。先生が好きです。──別に夢見てなんかいない。僕は先生が好きだ」
 真っ直ぐ見つめてくる、藤木の知的な目。状況に流され、ただ夢見るように恋をしているような目ではなかった。近づくものを撥ね付けるような、そんな強ささえ秘めた目だった。
 神山は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、口元に指をあてた。
 鋭く見つめる藤木の視線を、レンズ越しに受け止める。退路を探すのはやめ、軽く息を吐いて言葉を選ぶ。
 藤木が本気でそう告白してくるのならば──考えなければならない。
「……そうか」
 無精ひげのあごをなでて、捨て身で告白してきた御曹司を見る。彼がどうして自分を選んだのかは分からない──ありがちな冷え切った家庭に居場所をなくして、自分に助けを求めてきたのかもしれない──しかし、そこにたとえどんな理由があったとしても、悪戯に藤木の想いを受け入れるわけにはいかない。神山にとって、藤木は生徒だ。そして、想いを寄せてもいない。おそらくたぶん、それはどこまでいっても変わらないだろう。それがはっきりと分かっているのなら、藤木の告白は受け入れることはできない。
「気持ちは、嬉しい。……だが、俺はそれを受け入れるわけにはいかないし、受け入れるつもりもない」
「先生……!」
 藤木の悲痛な声。だが、ここで折れてはいけない。
「俺にとって、藤木は生徒だ。その気持ちは、受け取れない」
「僕のことが、嫌いなんですか……。僕が、男だからですか……」
 傷ついた顔をして、藤木が弱弱しい口調で尋ねてきた。すがるような、そんな顔にも見える。神山の良心がうずいたが、それでもこれだけは譲るわけにはいかなかった。
「嫌いとか、男とか、そういうのじゃない。生徒として、勿論、力になりたいと思うし、おまえが困っていたら助けたいとも思う。だが、やっぱり、藤木の告白は受け入れられない」
「……!」
 藤木は目を見開いて、唇を噛んだ。神山の言葉に、傷つけられているのは明らかだった。その傷つけられた深さも、神山には痛いほど分かる。
 胸が痛んだが、取り消す気も言い直す気もなかった。恨まれるのならば仕方ない。だがきっと分かってくれるはずだ。藤木は聡い。きっと年を重ねれば、分かってくれる。十年、二十年後でもいい。
「……藤木。告白は受け取れないが、もし困ったことや辛いことがあったら、いくらでも話を聞いてやるぞ。遠慮しないで話に来い。力になれるなら、絶対力になってやるから」
 藤木は──拳を握り締めて、こわばってしまった顔を無理やり歪めた。
「先生」
 ぎこちなく、虚勢を張って笑う。強がっているのが丸分かりだった。
「……分かりました。……先生のおっしゃりたいことは、分かりました。……僕の話を聞いてくださって、ありがとうございました」
 藤木は深深と頭を下げた。頭を下げたまま、続ける。
「けど、僕は後悔していません。先生が好きになったのは、事実ですから」
「藤木……」
 頭を下げたまま、藤木は走って神山の脇をすり抜けた。振り返らず、屋上を出て行く。遠ざかっていく足音を背中で聞きながら、神山は苦いため息をついた。
 眼鏡を外して、こめかみを揉む。まぶたの裏がうずいた。気分は、最悪だった。
 鞄の横ポケットから、潰れたタバコの箱を取り出す。片手でタバコを一本出してくわえ、ズボンのポケットに押し込んでいたジッポで火をつける。背をかがめるように火をつけて、深いため息。
 紺色の空に、白い紗が広がる。
 沈溺した憂鬱な気持ちを、タバコの煙で溶かせればと思ったが、そんなに甘いものではなかった。苦いばかりのタバコの味が、更に神山に追い討ちをかける。
 沈んだ気持ちのまま、階段室へ足を向ける──足元に伸びた影に気がついて視線をあげる。そこに立っていたのは、
 真沢だった。
「……先生」
 真沢は何か言おうとした。しかし、何を言えばいいのか分からないふうに、目を伏せた。それだけでもう、先ほどの藤木との会話を聞いていたことは一目瞭然だった。
「聞いた……のか」
「すみません、立ち聞きするつもりは……その、先生があまりに遅かったので……気になって……それだけです……」
 冴えない顔色でそう詫びる姿を、神山は軽くうなずいて許して──タバコの煙をそっと吐いた。
 ゆっくりとした歩調で、真沢の横を通り過ぎる。真沢がすれ違い様に振り向いた。
「……それでいいと思っているのですか? 先生は、それで後悔しませんか?」
「藤木のことが好きだったら、また話は違ったと思うが……藤木は、あくまで生徒だ。告白を受け入れるわけにはいかないと思う。……気持ちは、嬉しいが」
 気分はあまりよくないが、断ったことは間違っていないと思う。いくら告白されても、そういう意味で好きでなければ、たとえ藤木が生徒でなくても受け入れられない。藤木がもし女だったとしても、結果は同じだ。
「──違います。先生はお忘れになっています。藤木君は、この学園の理事長の息子です。その彼を、あんなふうに断ってしまって、……怖くはないのですか」
 神山は声を立てて笑った。携帯灰皿を鞄から出し、タバコの火を消す。真沢は神山の笑い声に、鼻白んだ様子だった。
「藤木はそんなことをする生徒じゃない。君の考えていることは、とり越し苦労だな」
「……」
 真沢は何か言いたげな顔をし、しかしまた何も言えずに、目を伏せた。未練がましく言い募るように、小さく嘆く。
「先生は優しすぎます……」
 その嘆きは悲しそうだったが、出し抜けに吹き抜けた風に神山が目を細めただけですぐに見えなくなった。







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