5


「……神山先生?」
 真沢の呼びかけに我に返って、神山はのろのろと視線をあげた。
 そこには、包帯を手にした真沢が立っていた。相変わらず、スタイルがいい。
「ん……何か……?」
 かすれた声で聞き返す──真沢はわずかに眉をひそめた。
「体調が悪いのですか……?」
「……あ、ああ、まあ、……ただ寝不足なだけ……」
 神山は曖昧に笑って、デスクから立ち上がった。よたよたとした足取りで、窓際に歩み寄る──窓の桟に指を添えた。
 昨日……
 藤木のことがあったせいで、あまり眠れなかった。
 この保健室で、神山はさかり、藤木に欲望をたたきつけた。その過程がいかなるものであろうと、結果は汚らわしいものでしかない……逃げ出せるものなら逃げ出したいと何度考えただろうか。しかし、そのたびに藤木の甘える仕草が目の前にちらつく。
 藤木は、行き場がないのだ。きっと。……神山には分からない、天才ゆえの孤独、苦しみがあるのかもしれない。曲がった方法でしか甘えることができないのだ。……それを、無下に拒否することはどうしてもできなかった。
 だからといって──
 自分のしたことは、許されるものではない。
 堂堂巡りだった。あれは一時の間違いだったと片付けてしまえばいいのだろうか。けれども──犯した罪は、罪だ。
 どうすれば、一番いい行動がとれるのだろう? どうしたら、藤木の曲がった暴走を止められるのだろう。
 ──いや、自分に藤木を止められるのだろうか。
 考えるのをやめたかった。
「先生……」
 真沢のうかがうような声に、神山はふっと現実に立ち戻った。
 急に、外の生徒の喧騒が耳に戻ってきた。
 そうだ──今日は、文化祭だ……。
「先生、……あなたは……」
 何か言いかけた真沢を遮って、保健室の扉が騒々しく開いた。
「こっうやまちゃーーーんっ」
 現れたのは、弓岡だった。
 派手派手しく両手を広げて登場した弓岡は、漂っている真面目な雰囲気に遅れて気がついた。
「れ……? 何、どうしたの。深刻そうだけど」
「弓岡……」
 神山は疲れた顔で振り返った。
 疲れた顔をしているのが、自分でもよく分かった。
「うわっ、どうしたの、その顔。ものすごく疲れてるけど」
「……ああ、ちょっとな……」
 ハハ、と弱く笑う。弓岡のテンションには、今日はついていけそうもない。
 なのに、弓岡はわらわらと寄ってきた。
「なになに、どうしたの。恋のやまいですか〜?」
「……頼むから、静かにしてくれ……」
 ため息をついて弓岡から離れようとすると、弓岡は無邪気な明るさで神山の額に手を置いた。
「っ、な、お、おま……」
 驚いてあとずさる──弓岡は鹿爪らしい顔で一人ごちる。
「んー、熱はないようですね〜。医者の不養生、紺屋の白袴。それかと思ったけど違うみたいだし」
「や、やめろ……」
 弓岡の手を力なく払って、デスクの椅子に崩れる──が、その前に弓岡の手が腕をつかんでそれを引き止める。
「だから、何なん……」
 鬱陶しさについ声が荒くなった。噛み付くような勢いで見上げた弓岡の顔は、はっとするほど真剣な顔をしていた。思わず、言葉を飲み込んで沈黙する。
「……神山ちゃん、ひょっとして──」
 弓岡は目を細めて険しい顔をした。理知的な風貌をしている弓岡がそんな顔をすると、途端、迫力が出る。神山は驚きと意外さで何も言い返せなかった。
「……アハハハ。なーんてっ」
 だが、弓岡はそんな神山を笑い飛ばし、すぐにいつものようにニヘラっと相好を崩した。
「そうそう、今年の文化祭、すごいよ〜? 三年の喫茶店、コスプレ喫茶で結構本格的。神主さんからホストまで色とりどり。……神山ちゃんも一度、話のタネに見てきなよ」
「コスプレ……喫茶」
 顔が引きつった。いきなり濃い話を聞かされた気がする。しかも何でコスプレなんだ。
「ほら、見てきなよ〜。俺、神主さんに珈琲入れてもらっちゃった〜♪」
「い、いや、別に……」
 そんな気分には到底なれないし、しかも自分は別に神主マニアでも何でもない。
 あまり気乗りしない受け答えをすると、弓岡はバンっと神山の肩を叩いた。
「痛っ、おま、……あ、あのなっ」
「何で分からないのさ! 神主。あの袴。もう萌えろって言ってるようなもんでしょうが!?」
「い、いや、その……別に俺は……」
 どうやら弓岡は神主好きらしい。……よく分からない。
「神山ちゃんの苗字は神の山! 神! ああ、神山ちゃんのバカ。もういろいろもったいないことしてるのに。ということで見てきなよ! 神主。いいから!」
「ゆ、弓岡、……おい、ちょっと待て、うわっ」
 強引に背中を押され、神山は派手に転んだ。足が滑ってしたたかに腰を打つ。
「痛ぅ〜……」
 腰をさすって立ち上がる……転んだ衝撃で歪んだ眼鏡の位置を直す。痛みに涙が出る。非難がましく弓岡を振り返れば、当人は腰に手を当ててそびえたっていた。
 何故だかムッとした顔だ。……むくれたいのはこっちの方だというのに。……とは言い返せない。怖かった。
 弓岡はびしっと人差し指を突きつけると、はっきりと短く言い切った。
「行かないと天罰!」
 もう泣きそうだ。いろいろと。
 神山は腰をさすりながら、何度もうなずいた。
「分かった分かった……行けばいいんだろう……」
 よろめきよろめき、保健室のドアを開ける。今行かなければ、確実に足腰が危険だ。弓岡のバカ力は半端ではない。
 扉を開け、廊下に出る。とにかく喫茶店に行くにしても行かないにしても、保健室をしばらく離れていないと危険だ。まあ、真沢がいるから仕事のほうは大丈夫だろうが。
 無意識に長いため息が出た。
 とてもじゃないが、文化祭を見て回る気力はない。
 ああ、腰が痛い──
 さすさすと腰をさすっていると、すっと自分のものではない手が伸びてきた。
「うわっ!?」
 慌てて飛びのく──そこには、真沢が立っていた。
「驚かせてしまったようですが……別に他意はありません。腰は大丈夫ですか」
「う、あ……ああ、その、君、……保健室」
 真沢は小首をかすかに傾げて、考え込むような素振りをした。どうやら、小首を傾げるのが彼の癖のようだ。
「弓岡先生に追い出されてしまったのですが」
「……は?」
「いえ、ですから。弓岡先生が。保健室の番は、しておくからと。私としましても、先輩のおっしゃることに逆らう理由はありませんから」
 何だって?
 言葉がない。弓岡は、自分だけに飽き足らず、真沢までも巻き込んだのか。
 金魚のように口をパクパクさせている神山をどう思ったのか、真沢は理知的な仕草でこめかみに指を当てた。
「……腰。診ましょうか?」


 ※ ※ ※


 結局、弓岡の勧める喫茶店には行かなかった。
 あまり気が進まないのもあったが──生徒にまみれて文化祭を楽しむ余裕はなかった。真沢も人ごみは苦手らしく、他に行くところもないようで、自然と神山と行動をともにすることとなった。
 仕方なく──保健室に戻ることはしばらくできなさそうだったので──食堂の前の石階段に腰をおろして、缶コーヒーを開ける。
 時刻は、もう昼過ぎか。白衣のポケットから携帯を出して、時刻を確かめれば十二時三十分を少し過ぎていた。
 左隣に真沢が座っている。真沢は黙って、ブラックコーヒーの缶に口をつけていた。
 遠く、生徒の喧騒。なんだかどっと疲れてしまった。
「……すまん」
 神山は頭を下げた。
 真沢は何のことだか分からない、という顔をしてこちらを見た。
「……何がですか?」
 思ったとおりの言葉が返ってきた。
 神山は手にした携帯電話を横におき、缶コーヒーの缶を両手で所在無くいじった。
「……その、弓岡だ。あれは……ああいう……あれだから……」
「……ああいうあれですか?」
「う……その、悪い奴じゃない。悪い奴じゃないんだが……ちょっとにぎやかで」
 弓岡は悪い奴ではない。悪い奴ではないが──時折、そのテンションについていけないこともある。神山はよくそれに振り回されて慣れてしまったが、真沢はまだ慣れないだろう。しかも、真沢のような人間には、弓岡のにぎやかさは鼻につくかもしれない。だが、だからといって嫌いにはならないでほしかった。……無理な話かもしれないが。
 真沢は「ああ……」と少し考え込むように視線を他所へ向けた。
「……好きです。ああいう方は」
「そっ……そうか……!」
 神山はほーっと安堵のため息をついた。弓岡のことではあったが、自分のことのように安心した。
 ぐいっと缶コーヒーに口をつけて、飲み下す。少し、胸のつかえが降りた。
「ああ、良かった。あいつは、本当にいい奴なんだ。だから」
「……」
 真沢はやや不可解なものを見たように、眉を寄せた。しかし、すぐに視線を下に落とす。
「先生は……そうやって、犠牲になるんですね」
「うん……?」
 ぼそぼそとした呟きだったため、良く聞き取れなかった。聞き返すと、真沢はやや悲しそうな顔して、流し目気味にこちらを見つめた。
「先生が学生時代の担任だったら、良かったです」
 ……明らかに、さっき言ったことを変えて言い直したのが分かった。
 しかし、なんだか悲しそうな顔に突っ込むことができなくて、神山はぎこちなく笑って返す。
「担任?」
「ええ。……それか、先輩。……そうしたら……」
 真沢は缶コーヒーのラベルを気のないように眺めた。
 何か他のことをして、別にどうということではないと演じているのが丸分かりだった。
「……そうしたら、文化祭や学園祭、休まずに来ていたと思います」
「休まずに……?」
 真沢は缶を横に置き、小首を傾げて神山に向き直る。
「私はこれまで一度も、文化祭や学園祭──校外学習に参加したことがないんです。取り立てて仲のいい友人もいなくて。居たたまれなかったものですから」
「ああ、だから」
 だから、昨日……文化祭がどうだとか言っていたのか。
「先生は人がとてもいいから──私のような人間でもきっと、付き合って文化祭を回ってくれるかなと思っただけです」
「別に人がいいわけじゃ──」
 笑って訂正する──しかし、言葉の先を、真沢は手を伸ばして止めた。伸ばされた真沢の手は、目元に触れた。
「っ……!?」
 びくりと身体を硬くする。脳裏に、昨日の藤木が浮かんだ。
 しかし、藤木の影と違って、真沢は悲しそうな顔をした。
「隈……眠っていないのですか……」
「……あ」
 言葉が思いつかない……頭が働かない。
 真沢の指が離れ、襟元──白衣の襟に落ちる。うつむいて頭を振る。真沢の不可解な苦悩が映る。
「……あなたは、悪くないんです……」
「悪くない……?」
 何の話だろう──聞き返す矢先、電話の着信音が鳴った。
 神山のものではない。真沢はすっと身体を離して、立ち上がった。白衣のポケットから携帯電話を取り出して耳に当てる。
「……!」
 真沢の顔色が目に見えて悪くなった。
 そしてそのまま、何も言わずに通話を切って立ち尽くす。相手が一言言うぐらいしかできないような、短い通話だった。しかし、真沢は取り乱した様子で沈黙している。
「どうか……したのか?」
「……」
 真沢は答えない。
 うつむいた視線は、どこか違う地面を見つめている。
 ひどい顔色だ。神山は心配になって、立ち上がった。ぼんやりというよりかは、怯えて固まっているようなその姿に、おずおずと手を伸ばして肩に触れる。
 つかんで、揺さぶった。
「おい……? どうした?」
「あ……い、いえ、何でも……何でもありません。離してくださいっ」
 予想していなかった力で肩の手を振り払われた。
「あっ……!?」
 予想していなかったのは、真沢も同様だったらしい。力が余って、前のめりにバランスを崩した。
 バランスを崩してよろめいた真沢の身体を、神山は咄嗟に抱きとめた。軽い衝撃。しかし、真沢の身体は思ったよりも軽くて細かった。
「っと……」
「……っ」
 真沢が息を詰めた。しかし、先ほどのように拒絶しはしなかった。驚きに気を取られてか──神山の胸板についた手を、そっと握り締める。白衣の襟元にしわが寄った。
「ど、どうかしたのか……? さっきの電話……」
「!」
 真沢が慌てて、神山を突き飛ばした。
 何かに怯えるように、あたりを見回す。人の目を気にしているような素振りだ。
 神山も慌てた。
「ま、待ってくれ。別に俺はそんなつもりは……」
 よろめいたから抱きとめただけで、どうこうしようなどという気持ちはない。そんな誤解をされたのかと、神山は少しショックだった。
 いくら藤木のことがあったからといっても、神山は男を手篭めにする意志はないのだ。
「い、いえ、そういう……。そうじゃありません、……先生。すみません、許してください」
 真沢は後ずさり、頭を振った。怯えて取り乱している。何がそんなに怖いのだろうか。さっきの電話が原因なのか。
「そ、その──余計なお世話かも知れないが……何か困ったことがあるんなら、いくらでも話してくれ。力になれるかどうかは分からないが……」
「……っ!」
 真沢は目を見開き、眉を寄せて何度も頭を横に振った。
「その優しさは、きっと無意味です。……先生」
 真沢は眉を寄せて、何か言いかけた。だが、いつものように結局何も言わずに(……言えずに?)うつむくと、白衣を翻して走り去っていった。
「……真沢」
 神山は行ってしまった彼の背に、ぽつりと呟いた。それからふと気がついた。今、口に出して真沢の名を初めて呼んだ。そういえば、いつも名を呼んでいなかったような気がする。
 ──しかし、そんなこと今、気がついても何の意味もない。
 彼は一体、何を抱えているのだろうか。神山の力では、受け止められないほど大きな問題なのだろうか。確かに、自分は無力だ。藤木のことも解決できずに流されている。しかし──
「……」
 神山はうつむいて眼鏡の縁に触れた。
 自分はこんなにも情けなかったのか……







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