6


 気分最悪で保健室まで辿り着くと、デスクで居眠りをしていたらしい弓岡が飛び起きた。
 しかし、相手が神山だと気がつくと、途端にだらーっと怠けた顔になる。
 どうやら、真面目に保健室の番はしていたらしい。壁にかかった時計を見れば、時刻は四時を指していた。
「やけに遅かったじゃん……」
 すねた顔をして、弓岡が唇を尖らせた。
 神山は弓岡の仕草に、ようやく緊張が取れてほっと息をついた。……嫌な決着のつけ方になってしまったが、藤木のことはあれで良かったのだ。もし、藤木が父親に訴えたのなら、もうどうしようもない。それを甘受するしかないのだ。今さら、それを悔やんでも仕方がない。それだけのことを、自分をやってしまったのだから。
「神山ちゃん? ……なんか、疲れてるみたいだけど、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。……ええと、……真沢、は?」
 あたりを見回すが、真沢の姿がない。あれから、帰ってきていないのだろうか。
「真沢先生? え、一緒じゃない?」
「ああ、ちょっと。……帰ってきてないのか?」
 弓岡はかりかりと頭をかいた。
「帰ってきてないけど。……顔も見せに来てないと思うよ」
「そうか……」
 どこに行ったのだろう? 最後の何か言いたげな顔が目に浮かぶ。あのとき、やっぱり無理にでも問い詰めていたほうが良かったのだろうか。
 ……心配になった。
 そわそわしているのが弓岡にも伝わったのだろう、弓岡はネクタイを少し緩めながら、肩をすくめた。
「なんか、どうよねぇ。神山ちゃんて真沢先生と仲良しなわけ?」
「う、うん?」
 弓岡が近づいてきた。妙に嫌な予感がして、神山はあとずさる。
「な、仲良しというか──同僚だから……」
「ふうん……? 神山ちゃんて、真沢先生のこと呼び捨てなのね」
「う、あ、そ、それは……、その、まあ、勝手に……」
 勝手に呼び捨てにしてしまっているだけで──そういえば、真沢自身には許可をもらっていない。
 ──まずかったかもしれない。
「勝手にそう呼んでる? ……ふうん……」
 じろじろ。
 弓岡が神山の顔を斜めから、上から、下から見つめた。珍獣を観察するような態度だ。
「な、何だ……」
「べーつーにー」
 じろじろ。
 視線がいたたまれない。確かに呼び捨てを無許可でしたのはまずかったと思うが、こんなにじろじろと見られる覚えはない。
 ちくちく刺さってくる弓岡の無遠慮な視線に、神山は軽く取り乱す。
 ──この視線は一体何なんだ。
 まじまじと神山の顔を見ながら、弓岡が言葉をなぞるように囁き声で呟いた。
「ひょっとして、神山ちゃん……」
「う、うん?」
 弓岡ははーっと長い大げさなため息をついた。
 嫌な間。
 ぽんぽん、と神山の肩を叩いてうなずく。
 ──だから何なんだ……。
「惚れたな?」
「っ!?」
 予期していない言葉を言われて、神山は飛び退いた。
 カアッと頬に熱が走る。
「ほ、惚れるって、あ、あのなっ! そ、そんなはずないだろうがっ」
「まあまあ。恥ずかしくなーい恥ずかしくなーい。恋はすべての人に平等に舞い降りるものなのよん。ああ、春」
「ひ、人の話を聞け! だっ、大体、」
 真沢に惚れる? そんなバカな話、あるはずがない。真沢も男で、自分も男だ。──と言い返そうとしたが、ふと弓岡の性癖を思い出して口をつぐんだ。
 言葉を選びなおして、無実を主張する。
「た、確かに真沢…先生は、その、違う! 俺は違うぞ! 違う!」
「なに、俺は男を好きになるような気持ち悪い奴じゃないって?」
「う……、そ、そういう意味じゃなくてな、その……、あの、……お、俺は」
 完全に取り乱してしまって、言葉が思いつかない。弓岡を傷つけるつもりはない。傷つけるつもりはないが、どの言葉を選べばいいのか混乱しきった頭では考えられなかった。
「ふうん? 俺は、なに?」
 弓岡は顔を近づけてきた。ずいっと鼻先が触れ合うまで近づいてくる──
「お、おい、よ、よせ」
 神山はぎくりと身体をこわばらせた。脳裏に、藤木の姿が浮かぶ。そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。
 こちらの考えていることを知る由もない弓岡は、至近距離でその理知的な顔をにまっと緩めた。
「神山ちゃんたら、可愛い♪」
「……お、おまえ、からかってたのか!?」
「別に、からかってたわけじゃないんだけど〜……ん?」
 ふと、弓岡が真顔に戻った。
 神山はびくりと身構える。
「な、何だ、どうした」
「……神山ちゃん、抜いてきた?」
「っ……」
 息を飲んだ。抜いてきた──抜いてきたわけではない。抜いてきては……いないが。脳裏に、藤木とのことが浮かぶ。
 まさか、気づかれた?
 そんな、まさか。
「そ、……そんなはず、あるわけないだろう……!」
 ぐっと弓岡の身体を押し返し、距離を保ちなおす。もう決着がついたこととはいえ、他に知られるわけにはいかない。いつ、何がどうやって側杖を食らわせるか分からないからだ。
「……」
 弓岡は一瞬、真剣な顔になって──目を眇めた。だが、それも一瞬のことで、すぐにまた笑い顔に戻った。
「そう。抜いてないかー。じゃ、今度抜くときは呼んでね〜」
「……ば、バカ」
 神山は眼鏡の縁をいじりながら、ようやくそれだけを言い返した。
 弓岡がふと何かを思案するように真剣な目になったのを、神山はやはり見逃してしまった。







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