※ ※ ※


 文化祭も無事終了し、いろいろあったが藤木とのことも何とか決着をつけた。それで、一つの問題は形はどうであれ解決したはずだった。
 しかし──
 神山の前には、まだ一つの気がかりがあった。
 それは真沢のことだった。
 下校時刻を過ぎても、真沢は帰ってこなかった。
 ──まさか、もう帰ってしまったのだろうか。
 神山は手持ち無沙汰に保健室のデスクにつきながら、ちらちらと壁の時計を気にしていた。
 帰ってしまったのならそれでもいい。だが、もし帰っていなければ──あの何かいいたげな顔が目に浮かぶ。何かあったのではないだろうか? あの電話のことも気にかかる。
 探しに行ったほうがいいだろうか。しかし、どこを? 広い校内だ、闇雲に探してもおそらく見つからない。
 だが──このままぼんやり待っていても仕方ない。
 神山はデスクから立ち上がり、保健室を出て行こうとした。
 そのとき──
 保健室の扉が開いて、真沢が帰ってきた。
「真沢……」
 帰ってきた真沢の頬が、ひどく腫れていた。青痣が出来、せっかくの白皙の美貌も台無しになっていた。
「その怪我」
「……何でもありません。まだお帰りになっていなかったんですか」
 慌てて近寄ろうとした神山を雰囲気で制して、真沢はさっさと自分のデスクに向かった。書類を集め、束ねる。どうやら帰宅の準備をしているようだった。
 何でもないと言われても、その頬の痣は嫌でも目を引く。
 神山は珍しくムッとした。
 疲れたような視線で、うつむく真沢の頬。ひどい青痣。これで気にするなという方が無理だ。何故、そんな拒絶するようなことを言うのか。
 神山は真沢につかつかと近づくと、強引に腕を取ってこちらを向かせた。
「っ!」
 咄嗟に真沢が顔を背けてうつむく。しかしその痣はあまりにひどかった。
 頬──というよりかは、こめかみの下あたりから頬骨のあたりにかけて青痣が出来ていた。腫れ上がったそこは、痛々しいほどに輪郭をも変えてしまっている。
「……どうしたんだ……」
「ぶ、ぶつけてしまったんです。それだけです」
 小声で言い訳。しかし、ぶつけたはずはない。こんな痣は、殴られたときにしかつかない。伊達に保健医ではないのだ。殴られた痣か、ぶつけた痣かは少し見れば分かる。
 真沢もそれが分かっているだろうに、あからさまな嘘をついた。
 それが、いやに気に入らなかった。あのときは問い詰めなかった、しかしあれは間違いだった。今度は引き下がることはしない。
「ぶつけた痣じゃないぞ。殴られた痣だ。どうしたんだ」
「……何でもありません」
 何でもないわけがない。こんなに頬を腫らしているのに、どうしてすぐに分かる嘘をつくのか。真沢も保健医だ。そんな嘘はすぐばれると分かっているはずだ。
「何でもないわけはないだろう……? こんなに腫れて」
 神山は腫れた頬に、そっと指を添えた。
 びくっと真沢が構える──脳裏に藤木とのことが思い浮かび、神山は少し動揺して言い訳する。
「ち、違う。構えないでくれ」
「……」
 真沢は目を伏せて、うつむいた。抗うことは、やめたらしい。急におとなしくうなだれて神山の指を受け入れる。
 頬は確かな熱を持って腫れていた。明らかに、誰かに力いっぱい殴りつけられたあとだった。ひどく痛々しかった。せっかくの白い肌に、こんな痣──伏せられたまつげが震えている。怯えているのか。
 神山は慌てて、言葉をかける。
「な、何もしない。お、俺は別に……あ、安心してくれ」
 痣に触れていた手を離したが、真沢は顔をあげなかった。腫れた頬を隠すように、うつむいて震える。
 ──威圧的な態度をとってしまった。
 後悔した。無理強いしてしまった。ぶつけたという嘘は分かっていたが、やはりそれでももっと順を追って、話を聞き出せばよかったのだ。どうして、こんな強引な──性急なことをしてしまったのだろう。
「す、すまん。……その、し、心配だったんだ。だから。……その、頬が腫れていたから」
「……」
 真沢はうつむいたままだ。居心地が悪かった。嫌われてしまったのは明らかだった。
 神山はせめて欠片でも何かを取り戻そうとして、真沢の黒い髪に触れた。しかし、触れたのはいいがどうしたらいいのか分からず、ぎこちなく耳を掠めて降ろす。さらりとした髪の感触が、指先にだけ残った。
「……すまん」
「……いいえ……先生は、悪くありません」
 小さな、か細い声が返ってきた。
 わずかな相手の反応に、神山は大きな安堵のため息をついた。それから、自分がずっと真沢の腕をつかんだままなのに気がついて、急いで離した。
「す、すまん、……ああ、でも良かった。怒らせてしまったのかと思って」
 そうとなれば、やはり頬の痣の手当てだ。
 事情は後から聞けばいいことだ。とにかく、早く湿布を貼っておかなければ、明日にはもっと腫れあがってしまうだろう。
 救急箱を取ろうと身体を離しかけた神山を、真沢は反射的にだろうか、白衣をつかんで引き止めた。
「先生……!」
 何かを言いかける──だが、続かなかった。
 ゆっくりと、白衣を離す。うつむいて黙ってしまうのは、今日だけで何度も見た。
「……何か言いたいことがあるんなら──」
 気にしないではっきり言ってくれ。そう言おうとした神山を、真沢は遮った。
「……いいえ。先生。黙ってしまうのは、私の保身ですから。……先生は気にしないでください……」
 真沢はぽつりとそう言い返して、またうつむいた。


 ※ ※ ※


 すっかり暗くなってしまった夜の街を歩く。
 居酒屋やスナックが立ち並ぶ通りは、もうすでに夜の顔を呈している。にぎやかな喧騒。スーツ姿のサラリーマン、やたらと派手な格好をした女、実に様々な大人たちが笑いあって騒いでいた。彼らの本当のところは実際分からなかったが、陽気に騒ぐ夜の街は大人の休息地にも見えた。
 悪趣味といえば悪趣味なネオンに照らされながら、真沢と神山は互いに沈黙のまま、歩を進めていた。
 神山は学校の近くに住んでいるが、真沢は電車でここまで通勤しているという。
 偶然、駅と神山の自宅の方向が同じで、どちらが示し合わせることもなく、成り行きで一緒に帰途につく。その帰路に、このにぎやかなネオン街があるというわけだ。
 神山はちらりと真沢を見た。
 真沢はただ前を見て、歩を進める。時々うつむく。頬に貼った大仰な湿布を恥じているようにも見えたが、実際はそうでもないのかもしれない。視線はどこか、やはり暗かった。
 明るいネオンと、真沢の表情。その対比がやけに神山の心に引っかかった。
 頬は、誰に殴られたのだろう。何に怯えているのだろう。電話の主は、誰だったのだろう。
 尋ねたかった。けれども、尋ねられなかった。尋ねても、神山の望む答えは返ってこない。
 神山は少しためらい、けれども諦められず、声を出した。
「あ──」
 真沢が足を止めて振り返った。湿布がひどく痛々しい。せっかくの美貌が台無しだった。
 振り返り、しかし何も言ってこない真沢に、神山は困って──慌てた。咄嗟に彼の細い腕をつかんで、目に付いた紺色の暖簾に結びつける。
「あ、そ、その、何か食べる……」
「えっ……?」
 真沢にしては無防備な問い返し。神山は強引に、咄嗟に見つけた紺色の暖簾に彼を引きずっていった。
 ガラガラと引き戸の扉を開けると、そこは和風の居酒屋だった。店員の威勢のいい声。「いらっしゃいませ、何名様ですか」。慌てた。ぎこちなく指を二本立てて合図する。まだ若い店員が、テーブル席を案内してくれた。
「……先生」
「あ……す、すまん……その」
 つかんだ腕を急いで離す。遅れて、自分のとった行動が強引過ぎることに気がついた。なんだか良く分からない汗が出てくる。
「す、すまん、……ええと」
「──」
 真沢は湿布を貼った頬に指を添え──視線をわずかにうつむけた。何かを考える仕草。小首を傾げ、神山を見つめ返す。
「私で、いいのですか?」
 視線は、あまり感情がなかった。元々淡白な性格をしているのもあっただろうが、少なくとも怒っていたり不快になっている様子はなかった。
 すぐに答えられなかった。理由はないはずだが、何故かひどく緊張していた。ガチガチの状態からは、とてもではないが柔軟な対応ができるはずがない──神山はようやく目をそらして、短くわびた。
「すまん」
 真沢はしばらく何か考えるような沈黙をとって、やがてそっと神山の向かいの席に座った。神山は思わず安堵のため息をついて、真沢の向かいに席を取る。
 お品書きを取り出して、テーブルの上に広げると、真沢は小首を傾げて神山を見た。
「ど、どうかしたか……」
「いえ……」
 真沢はふと視線を流した。湿布に指を添える。表情はあまりなかったが、困っている様子なのは何となく雰囲気で感じ取れた。
「……注文は、先生にお任せします」
「う、うん?」
 聞き返す──真沢はようやく、わずかに眉を寄せた。
「あまり……こういう店は、来ないものですから」
「あ、ああ、そうか、そうだな。すまん」
 真沢は若いのだから、もっとこう──暗い照明の、おしゃれな店に行くのだろう。失念していた。居心地が悪いはずだ。こんな、野球観戦が好きなオヤジが多く集まるような明るい店は。
 しかし真沢はますます困ったように眉根を寄せた。うつむいて、湿布を貼ったテープの端をいじる。
「そ、そうではありません。……人と、こういうのは、……初めて……で」
「えっ、は、初めて?」
「食べに行くのは、……その……そうなので」
 ぼそぼそと消え入りそうに続ける。人と食べに行くのは初めて──そうなのか。ああ、そうかもしれない。真沢はきっと群れるのが苦手なのだ。だから。
「あ、ああ、すまん──無理に誘ったりして」
「い、いえ。……あの」
 かすかな沈黙。ちらりと上目遣いに神山を見る。図らず、彼の頬はかすかに赤かった。
「憧れていましたから。これが精一杯の嬉しさの表現です」
 神山はまばたきを繰り返し──意味もなく、何となく照れた。眼鏡の縁を触って、ずれてもいない位置を正す。
「あー……あの、まあ、その。とりあえず注文しないとな。ええと、……何がいいかな」
 お品書きに視線を落とす──真沢はまだ困った顔をしていた。
 顔をあげる。視線があうと、真沢はうつむいた。
「すみません。実はあまりよく見えていないんです……」
「良く見えていない?」
「その──コンタクトを、落としてしまって。今は〇・一もありません。ですから」
 神山ははっとした。ひょっとして──殴られたときに、コンタクトを落としてしまったのだろうか。
「だ、大丈夫か?」
「ええ、それは……お気になさらずに」
「でも、支障はあるだろう。……ああ、そうだ、眼鏡は持ってきていないのか?」
 眼鏡、という言葉に真沢は思った以上の反応をした。「え」と聞き返す。
「いや、その、眼鏡……携帯は、していないのかと……」
「……眼鏡」
 真沢は少しためらうようなため息をついた。神山をちらと見やり、ちょっと顔を突き出すようにうつむいた。
「持っていますが……。あれは、似合わないデザインなので……」
「似合う似合わないの問題じゃない。夜になると更に見にくくなるだろう? 危ない。持っているんなら、かけたほうがいい」
 自分も視力が悪いから分かる。夜になると途端に見づらくなるのだ。いくらネオンの明るい道だとしても、真沢の帰り道がネオン続きだとは限らない。
 そう言ったが、真沢はなおも渋っている。そんなに似合わないデザインなのだろうか。しかしそんなことを言っている場合ではない。
「俺しかいないんだから、別にいいじゃないか。不便なんだろう? 気にすることはない」
「……ですが」
 真沢は鞄から渋々、眼鏡ケースを出した。うかがうように神山を見つめる。
「私は、先生に笑われるのは嫌です」
「笑うはずがないだろう。……それだったら、君はすでに俺のこの黒縁眼鏡について笑ったというわけか?」
「そ、そんなことは」
 真沢は珍しく動揺した。動揺したが、その動揺を恥じたのか慌てて視線をそらす。
「その眼鏡は、先生に似合っていると思います……私は嫌いではありません」
「じゃあ、かけたらいい。そう気構えるな。ほら」
「……」
 真沢はおずおずと──眼鏡ケースを開けると、赤い細フレームの眼鏡を取り出した。ためらうような間。しかし、意を決したように、そっとその眼鏡をかける。
 白磁の肌に赤いフレームの眼鏡が映える。元々知的な瞳をしていた真沢の瞳は、レンズ越しに更に知的になる。長いまつげがレンズ越しに思わぬ色気を演出させた。
 ──正直、神山はぼんやりとしてしまった。
 ぼんやりした神山を不安に思ったのか、真沢は急いでその眼鏡を外そうとした。
「あ、わ、ま、待て」
 真沢の腕をつかみ、止める。
「も、もったいない……そんなに似合ってるのに」
「え……」
 そう、似合っている。似合わないデザインなんて嘘だ。
「最近の若者は本当に恵まれているな。綺麗だ」
「あの……、へ、変じゃありませんか……?」
「変も何も。元がいいから、思わず……」
 はっと言いかけた言葉を引っ込める。
 ああ、何を言っているんだ。見とれたとか、そんなこといったらただの変人だ。
 慌てて笑ってごまかして、お品書きに目を落とす。
 その微妙な間を見て取ったのか、ジャストタイミングで店員がオーダーをとりに来た。
 神山がほっと安堵したのは言うまでもない。


 ※ ※ ※


 食事を終え、神山と真沢は店を出た。
 私鉄の駅前に差し掛かると、真沢は振り返った。眼鏡越しの視線がひどく真面目そうに見えた。
「先生……今日はありがとうございました」
「ああ。また明日」
 何でもない別れの挨拶を言うと、真沢は驚いた顔をして──こめかみに指先を当てた。斜め下の地面を見つめて、うつむく。
「先生? 私は──後悔は、していません」
 呟いた真沢の言葉は、しかしそのときちょうど入ってきた私鉄電車の轟音にかき消された。
 長い轟音。
 それが終わったとき、神山は聞き返した。
「すまん、何て言った?」
「……いいえ」
 真沢は顔をあげて、はにかむように──笑った。
 神山は真沢の顔をぽかんと見つめた。バカ面をしていたかもしれない。しかしこの二週間、真沢がはっきりと笑ったのはこれが初めてだった。
 はかなげな、弱い笑い。神山は息苦しさを覚えて、頭をかいてうつむいた。少し──照れた。
「ま、まあ──これから、迷惑をかけるかもしれんが、よろしくしてやってくれ。真沢…先生」
「こちらこそお願いいたします、神山先生」
 真沢は眼鏡のフレームを気恥ずかしげに触りながら、そう応じてくれた。






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