7


 藤木巽はあの文化祭から、ひどく機嫌が悪かった。
 理由は簡単、分かりきったことで、すべて保健医・神山淳司が関係していた。
 多少無理やりではあったが、神山と身体を繋ぐことには成功した。そう、無理やりではあったが、神山と確かに身体を繋いだのだ。口では拒否するようなことを言っていたが、結局は自分の中でいった。それは自分を受け入れるという意志の現れであったはずなのに。
 それが。
 あんな形で拒絶されるなんて。
 考えてもみないことだった。いつだって藤木は自分のほしいものを自分の力で手に入れてきた。まあ、それには多少、父の威光を借りることもあったが、利用できるものは利用してほしいものを手に入れることに何の支障があるだろう。手段を選ばないほどに、それがほしいのだ。神山の場合、それほどまでに好きだということの証明に他ならない。
 好きというのは、もっと違う?
 藤木には、神山の言うことが理解できなかった。
 好きというのは、執着だ。ほしいと思う。それだけだ。藤木は神山がほしかった。確かな繋がりがほしかった。だから無茶なことをしたのだ。
 確かに──無茶をやったという意識はある。しかし、ああいう強引な手を取らなければ、神山は絶対に自分のことなど気にもとめてくれない。神山に心を寄せる者達は腐るほどいるのだ。例えば──あの弓岡だってそうだ。
 欲する気持ちで負ける気はしないが、弓岡は自分と違って神山と対等の立場にいる。いつ間違いが起きて、神山と弓岡が……なんてことになりかねない。
 弓岡だけではない。あの男もそうだ。初めは敵ではなかった。それなのに。
 気に入らない。
 気に入らない。
 気に入らない。
 すべてが気に入らない。
 藤木は珍しく授業をさぼって、空き教室で行き場のない苛々に身を揺さぶっていた。一人ではない。藤木自身は頓着していなかったが、後ろに影のように二人、長身の男がつき従っていた。
 実際、彼らは藤木が行くところ行くところお供しようとしたし、藤木が授業をさぼると言えばそのお供もした。彼らは藤木の決定に逆らうことはなかった。勿論、意見することもない。
 ──気に入らない。
 後ろ二人の取り巻きに藤木は苛ついて、目の前の廃棄処分になった机を蹴り倒した。
 ひどい音がした。
 はっと息を飲む気配。後ろに控えた取り巻きの一人が息を飲んだようだ。あいにく、藤木にはそれが誰か分からなかった。いや、今いる取り巻きの二人の名前を藤木は良く覚えていなかった。
 やたら背の高い、体格のいい二人組。黒髪と、地毛なのか茶色い髪をした何の特徴もない男──これといって目立つところは何もない。顔も十人並みだ。
 名前など覚えているわけがなかった。
「巽様──」
 茶色の髪をした男が、おずおずと声をかけてきた。この取り巻きたちは、いつも名前に様をつけて呼んでくる。鬱陶しいと思っていたのはもう随分前の話で、今ではもうどうでもよくなってしまった。この取り巻きは、自分に従うような格好を見せてはいるが、実際、こびへつらっているのは自分にではなく、藤木家の権力にこびへつらっているのだ。
 それが分かっているから、なおさらむかついた。
「うるさい!」
 思いっきり取り巻きの横っ面を張ると、藤木は再び足が三本しかない廃棄処分の椅子を蹴り飛ばした。


 ※ ※ ※


 文化祭の翌日。
 真沢の頬は相変わらず腫れていた。あの腫れ具合だ。昨日の今日で腫れが引くわけはない。医者に見せたのかと朝一番言いかけたが、真沢の態度がさっと硬化したのに気がついて、神山は言葉を飲み込んだ。
 昨夜、ひどく強引に飲みに誘ったが、真沢は別段、それを不快と思っていないらしく、反対に今までよりも随分打ち解けたような仕草を見せた。だが、頬の痣のことだけは頑なで、少しでもそのことについて触れようとすると鈍感な神山でも分かるほど身構えた。
 押しの弱い神山は、それ以上真沢を問い詰めることが出来ず、昨夜から今日この時に至るまで、真沢の頬のことについて何も聞きだせずにいた。
 ──つまるところ、信用がないのだろう。
 神山は憂鬱ながらもそう決着した。何と言っても、十も違う年齢差だ。気構えられても仕方がない。それぐらいの年齢差なら、ジェネレーションギャップは顕著だろう。
 神山は一服を済ませ、タバコ部屋を出た。
 渡り廊下の窓の外は快晴、差し込む日の光が何とも綺麗だ。
 藤木の件のことはあったが、神山の気分はひどく落ち着いていていた。もし藤木が、あの件に関して報復しようとしてきても、それを受ける覚悟はついている。
 なんにせよ、藤木とのことは決着をつけたのだ。その決着の結果が、学園追放という報復であっても、神山は伝えたいことを言った。もう思い残すところはない。それを理解する・受け止めるのは、藤木自身だ。
 長い光差し込む渡り廊下を行き、階段を曲がる。
 一服をすると真沢に言って保健室を出てきたのだ。あまり長く保健室を空けているわけにもいかない。
 階段を降り終わり、一階のフロアに着いたとき、チャイムが鳴った。白衣のポケットから携帯を取り出し、時刻を見る。ちょうど、四時間目の授業が終わった時間だ。急に校内が騒がしくなった。
「神山先生!」
 生徒の騒がしい声を縫って、真沢の声がした。視線をめぐらせる──階上に真沢の白衣姿が見えた。何故か、今日も眼鏡をかけている。コンタクトが手に入らなかったとか何とか──そんなことを朝方言っていたが、あの赤フレームの眼鏡をあんなに嫌がっていたのにも係わらず、今日も昨夜のままだ。
 真沢は神山の姿を見つけると、相変わらずの知的な仕草で眼鏡の縁を指で押し上げた。
「先生、こんなところにいらっしゃったんですか。喫煙室の方に行ったんですけれど、姿がなくて──行き違いになりかけていたようですね。先生に──」
 そのとき、生徒の群れが現れた。昼休みだからだろうか、やけにはしゃいだ様子で階段を降りてくる。生徒が通り過ぎ、再び無人になる階段上──
 不意に、真沢の身体が何かに押されるようによろめいた。
「あっ……!?」
 真沢が階段を踏み外した。通り過ぎる生徒の群れ──真沢はバランスを崩して、階上から派手に落ちてきた。
「お、おい!」
 神山は反射的に飛び出し、両手を広げた。ほどなくして、真沢が落ちてくる。強い衝撃。さすがに真沢が細くて軽いとはいえ、結構な衝撃だった。受け止めようとふんばったが、うまくいかずそのまま後ろへ尻をつく。
 通り過ぎていった生徒たちはまったく気がついた様子もなく、食堂へ向かって行ってしまった。普通なら真沢が落ちたことに気がつくはずだが、昼休みの開放的な気分に気がつかなかったのだろう。
「せ、先生」
 声に気づいて真沢を見る。至近距離でレンズ越しの瞳があって、神山は急に頬が熱くなるのを感じた。
「あ、う、……そ、その、……すまん」
 慌てて顔を伏せる。頬が熱い。絶対赤くなっている。
 ──真沢に変な男だと思われてしまうではないか。
 急いで手で頬を隠したが、遅れてそっちの方が挙動不審だと気がつく。
「そ、あ……いや、その、怪我……ないか」
「ええ……ありません」
 すぐ近くで、真沢の声がした。
 ああ──知らなかったが、真沢の声は子どもの頃好きだったアニメの主人公のライバルの声に似ている。そのせいか、ひどく耳触りが良かった。
 成り行きとはいえ、自分の身体に乗りかかるような真沢の身体は、やはり細くて軽かった。最近の若者はダイエットだとか、美容だとか、男も女も関係なしに気にしているらしい。足も長く背も高く、顔も綺麗に生まれついているのに──
 だが、真沢のつけているらしい香水の香りは、石鹸の匂いに似ていて嫌いではない。
 そういえば、中学時代、初恋のクラス委員長は、石鹸の匂いがしていたか──
「……先生」
 そっとした真沢の声。神山は必要以上にびくりと身体を硬くして我に返った。
「あ、ああ、すまん、ええと……」
 密着した身体を離そうとして──それには真沢が退こうとしないことにはどうにもならないのに気がついた。
 ……何故、退こうとしない?
 怪訝な顔をしていたのか、真沢はあの考え込む仕草をした。こめかみに指を当てて、視線を他所へ向ける。
「申し訳ありません。どうも──その」
 奇妙な間。しかし、真沢は何かを諦めたらしく、続けた。
「足をひねってしまったらしく」
「……あ、し……? え、足? だ、大丈夫なのか。い、痛むのか。すまん、俺の受け止め方がまずかったか……」
「……」
 真沢は意表をつかれたように目を見開き、それから視線をさまよわせた。
 頬の湿布に指を添えて、眼鏡のフレームを押し上げる。雰囲気が、どことなく困っていた。
「先生が受け止めてくださらなかったら、私は大変なことになっていたと思います。……ですから、……すぐ謝るのは、やめてください。困ります……」
「あ、ああ……、す、すまん……あ、いや、そうじゃなくて、その、何だ、あ、ああうん……」
 もうしどろもどろだ。なんだか情けない。これでも、彼より十も上のはずなのに。初恋のことなんか思い出したりして、何を考えているのだろう。
 ──大概にしろよ、自分。
 神山は胸中で自分を叱咤した。
 真沢は足をひねってしまったのだ。いつまでもこの体勢でいるのはまずいし、かといって──
 …………
 ……
 神山はいいことを考えついた。ここから保健室はほんの少しの距離だ。その上、真沢は軽い。ああ、なるほど、自分はなんて頭がいいんだ。
 神山は真沢の身体に腕を回した。
「せ、先生?」
「よっと……」
 気合一閃、真沢の身体を横抱きにして抱えあげる──さすがに少し重い。だがまあ、耐えられないほどではない。一体、何キロなんだろうか。男にしては軽すぎる。
「……………………」
 抱えられて、真沢は口を閉ざしてしまった。微妙な沈黙。
「まあ、遠慮するな。そんなに重くないからな、保健室に行くぐらい、どうってことないぞ」
「……あ、……はい」
 真沢は視線を伏せたまま──小さくうなずいた。不安定な体勢を逃れようとしてか、神山の白衣の襟をつかむ。
「せ、先生……?」
 小さな声。神山は視線だけで聞き返す。
 真沢はますますうつむいて、詫びた。
「私がウェディングドレスを着た花嫁でなくて、申し訳ありません……」
 神山は遅れて、自分のやっていることが恥ずかしいことだと気がついた。


 ※ ※ ※


 真沢が神山を探していたのは、弓岡が保健室を訪れたかららしい。
 真沢を横抱きにしたまま、保健室に帰ってきた神山を、弓岡は案の定、鬱陶しいほど大げさに驚き迎えた。
「ど、どうしたの、そのお姫様抱っこ……」
「うるさい。」
 何か言われそうなのは分かっていたので、神山はできるだけ不機嫌に遮った。
 抱えた真沢を、黒い革張りの触診台に座らせる。
 真沢はどこか困っているらしく、表情こそなかったが落ち着かないそぶりだった。所在無さげに、頬の湿布をいじっている。
「ひねった足はどっちだ?」
「……右です」
 真沢の答えに、神山は右足に手を伸ばした。断りを入れてから、上履きと靴下を脱がせる。白い足首があらわになった。
「……その、触るぞ」
「はい」
 おずおずと右足首に触れる──滑らかな白い肌。何故かどきりとした。それを極力押し殺して、触診を始める。
 確かに──少し腫れている。だが、あまりひどくひねっていないようだ。痛みもしばらくすれば引くだろう。とにかく湿布が妥当か。なんだか頬といい、足首といい、湿布だらけだ。せっかくの綺麗な顔も身体も、湿布だらけでは痛々しい。
 背後から真沢の患部を覗き込むように見ている弓岡に気がつき、神山は振り返らず手だけを弓岡に向けた。
「おい、弓岡、湿布」
「ほいほい」
 弓岡はガラガラと引き出しを開けて湿布を取り出し、手渡す。
「救急箱」
「ほいほい」
 弓岡は心得たと棚から救急箱を取り出して、神山に手渡した。手馴れているのは、しょっちゅう保健室に遊びに来るせいだろう。神山もまた手馴れたように手当てを施す。
「よし、これで大丈夫だな。──うん? 真沢…先生?」
「……」
 真沢はどこか浮かない顔をしていた。手当てが終わったことにも気がついていないようだ。
 弓岡もそれに気づいて、真沢の目の前でひらひらと手を振った。
「真沢センセ? おーい?」
「っ!?」
 はっと我に返る。ひどく驚いた様子だった。
「あ……いえ、その、ぼんやりしていました……」
「頬の怪我、痛むんじゃないの?」
 弓岡の言葉に、真沢はびくりと手で頬の湿布を隠した。はっきりと怯えた仕草だった。
「い、いえ、別に……何でも」
「そう? 何でもないって……結構目立つよ、その湿布。ねえ」
 事情を知らないらしい弓岡は、神山に同意を求めてきた。
 真沢はますます浮かない顔をして、視線を落とす。やはり、頬のことには触れてほしくないようだった。神山からすれば、その頬の怪我が一体誰につけられたものなのか気にならないといえば嘘になる。けれども──
 神山は、視線で弓岡を制した。
 弓岡は神山の視線に心得て、軽くあごを引いた。
「ま、いっか、そんなことは〜。けど、お姫様抱っこは見過ごせないなー」
「……おい」
 痛いところに戻ってきてしまった。
 さすがに、お姫様……横抱きはビジュアル的に問題だったような気もしている。というかむしろ──やりすぎた。何が頭がいいだ。自分の短絡的思考に情けなくて涙が出る。
「保健室に入ってきたとき、結婚式かと思ったよ。白衣の結婚式。アハハハ、ホントになりそうで笑えないなぁ〜」
「なっ、お、おい!」
 つるっと滑った(のかどうかは弓岡でなければ分からないが)言葉に、神山はカッと頬を赤くした──が、それよりも早い反応で、真沢が激しい口調でそれを否定した。
「私と神山先生はそんな関係ではありません!!」
 シン…と保健室が静まり返った。
 遠くから、生徒の喧騒。気まずい沈黙が訪れた。
「……あ、アハハ、まあ、冗談冗談、気に障っちゃったなら許して」
 弓岡がようやくぎこちなく言い繕った。神山もつられるようにぎこちない笑みで応じる。
「そ、そうだぞ、おまえ、言って悪い冗談っていうのがあるだろう」
「そ、そうだよねぇ。うん、反省」
 真沢は視線を下に向け──口元に手を当てた。眼鏡越しの視線が床に突き刺さる。
「す……すみません。いきなり怒鳴ってしまって……本当に……」
 自分でも何故怒鳴ってしまったのか、どうしてそんなことを言ってしまったのか分かりかねている様子だった。ただ言ってしまったことは後悔しているらしく、顔色がひどく悪い。
「気分が悪いんなら、その、休んでたほうが──」
「い、いえ。大丈夫です。……少し、おかしいだけですから」
 真沢はゆっくりと触診台から降り、壁伝いに自分のデスクに向かって行った。その背中はやはりどこか頼りない。
 弓岡は少し困ったように頭をかいて、小さく肩をすくめた。神山のほうを見て、声を出さず囁く。
「退散するよ。謝っといて?」
 神山は小さくうなずき、弓岡同様、頭をかいた。
 神山も弓岡同様──真沢がいきなり怒鳴った理由を図りかねていた。あまり怒鳴ることもなさそうなキャラクターなだけに、違和感は激しい。
 抜き足差し足で弓岡は保健室を出て行った。背後で静かに扉が閉まるのを聞いてから、デスクについて仕事を始めようとしている真沢に近づく。
「……すみません」
 ため息混じりの、張りのない声。真沢は疲れているらしく、手で顔を覆った。
「なんだか苛々してしまって。……本当に」
「い、いや? そういうときもあると思う。……弓岡はちょっと……まあ、あれだから。ほら──」
 真沢が顔を覆っていた手を下ろした。かすかに刺のある言葉が返る。
「あれだから?」
「あ……ああ、まあ、その──」
「……すみません。また」
 真沢はよろよろと席を立った。頭に手を当てて、何度も振る。
「気分転換をしてきます。……どうも苛々してしまって、無駄なことを言いそうですから」
「足は……?」
「──」
 真沢は細いため息をついた。壁伝いに扉に向かいながら、自虐的に呟き返す。
「抱えていただくとも、平気です」
 それを捨て台詞にして、真沢は保健室を出て行った。
 彼が完全に行ってしまったのを見てから、神山はつい長いため息をついてしまった。
 だらだらとした動きで、自分のデスクにつく。またまたため息。
 どうやら、自分は彼を怒らせてしまったようだ。やはり、横抱きしたのがまずかったのだろうか。……自分の軽率さが憎らしい。
 人との接し方は下手ではなかったはずなのに、何故か真沢相手だと途端に緊張してしまって何がなんだかわからなくなってしまう。これをしたら機嫌を損ねてしまうのではないか、これをしたら不愉快になるのではないか、そんなことを考えているうちに結局言葉が足らなくなって強引な行動に出てしまうのだ。
 どうしたらいいのか考える→これはだめ→あれもまずい→でも何かしないと、という悪循環にはまって、つい余計なことをしてしまう。真沢はきっと、自分のことを強引で威圧的なオヤジだと思っているだろう。
 そう、年齢差もあるのだ。真沢のような若者から見れば、神山はただの時代遅れのオヤジ、しかも情けないオヤジだ。それだけでもうまくいかない要素満載なのに、更に自分で自分の首を締めてしまっているのだ……
 神山は深い深いため息をついた。
 ──本当、一体自分はどうしてしまったのか。
 一人でやっていた頃が恨めしい。あの時は気が楽だった。なのに。
 頭を抱えて机に突っ伏する。
 しかも真沢を前にすると、無意味に赤面してしまう。これでは、好きな子を前にした中学生状態だ──いや、別に真沢のことが好きというわけではない。まるで、という意味だ。そう。まるで。別に好きとか好きとかそんなのじゃない。
 “惚れたな?”
 ぽんっと弓岡の言葉が浮かぶ。
 神山は慌てて腕を振り回して、その言葉をかき消す。
「ち、違う! 惚れてないっ」
 振り回した腕が、机の端に積み上げていたファイルに当たった。痛みを覚えるよりも前に、そのファイルが雪崩を起こして下へ落ちる。やってしまった。慌てて拾い集めようと椅子に座ったままかがめば、その途中で激しく肘を机にぶつけてしまった。
「ぐあっ!?」
 走り抜けた電気に思わず身体を起こす──しかし不幸は重なるもので、神山はしたたか机の裏に頭をぶつけてしまった。
「痛ぅ〜……!」
 火花が散った。あまりの痛さに涙ぐむ。頭を抱えて悶えていると、今度はバランスを崩して椅子ごとひっくり返った。
「おぁ!?」
 床に尾てい骨が直撃した。思わず意味不明なうめき声が出る。それだけならまだしも、ひっくり返った椅子の背が、さっきぶつけた頭に突っ込みを入れるようにぶつかってきた。
 ……散々だ。
 眼鏡の位置を直しながら、尻をさする。覆い被さる形の椅子を押しのけ、散らばったファイルの上に座り込む。泣きそうだ。のろのろとやる気なくファイルを集め始める──追い討ちをかけるように、机の上から、かろうじて落ちずに済んでいたファイルが数冊、頭上に落ちてきた。
 勿論、避けるほどの反射神経などなく、ファイルの滝をもろに頭からかぶる。散々の上に散々だった。
「何でこんなことに……」
 大体、こうなってしまったのも全部真沢のせいだ。そうだ。絶対そうだ。そうに違いない。……きっと……たぶん……おそらく……。
 …………
 ……神山は深いため息をついた。
 念のためと思って、一番新しい恋愛のことを思い出してみる。そうだ。そのときのことを思い出せば、きっと今の状況が恋愛なんかじゃないということが分かるはずだ。一番新しい恋愛は──確か──
 ……神山はまた深いため息をついた。
「五年前……」
 思わず床に両手をついてうなだれる。ひょっとしたら、自分は枯れきった人生を送っていたのではないのか。今の今まで気がつかなかったが。
 いや、だからといって。
 神山は頭を振った。それからキッと鋭い目つきでファイルを集める。
 だからといって、真沢に惚れたわけはない! はずだ! たぶん!
「……ああ」
 神山はため息をついて、やっぱりのろのろとファイルを集めにかかった。
 半ばやけくそな乱暴さでファイルを集め、揃える。そこへひらりとB5サイズの紙が出てきた。
「……うん?」
 何気なく、それを手にとる──書面はワープロ文字で簡潔。

 『真沢秋之 おまえなんか学園を辞めろ!』

「……!」
 差出人の名前はなかった。白い紙に、それだけの文面。封筒類がないかとあたりを引っ掻き回したが、出てこなかった。
 学園を辞めろ……?
 これはひょっとしたら、脅迫状ではないのか。まさか、真沢が自分で作るとは思えない。悪戯にしては、悪質だ。
 神山の脳裏に、ハッと電話に顔色を変えた真沢の姿が浮かんだ。
 まさか──電話の主は、この脅迫文を送った人間ではないのか。あの頬の痣も、この脅迫文の……
「真沢……!」
 神山は立ち上がった。冷や汗が出た。
 まさか──
 さっき階段から落ちたのも、……そういえば、足を踏み外したにしては、不自然なバランスの崩し方だった。階段から落ちたのではなく、突き落とされたのだ。おそらく──あの生徒達の群れが通り過ぎたとき。ということは、この文面は蘇洸の生徒が出したものに他ならない。あのとき、生徒の群れに生徒以外の人間はいなかった。
「真沢!」
 神山は散らばったファイルもそのままに、保健室を飛び出した。







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