※ ※ ※


 保健室を飛び出した神山は、真沢を食堂前に見つけた。
 文化祭の日、神山と二人でコーヒーを飲んだあの石階段に真沢は腰をおろしていた。何か考え事をしているのか、物憂げな表情で缶コーヒーを手にしている。
 良かった、無事だったか……
 そう安心しかけたとき、ふと予感めいたものを感じて、神山は食堂建物の屋上を見上げた。
 陽光を遮るのは、黒い人影──人影? そう認識するより早く、神山は飛び出した。
「真沢! 伏せろ!」
 神山は真沢の頭を抱えて、その場に伏せた。
 ガシャーンっ!
 派手な音を立てて、屋上から何かが落ちてきた。それは神山と真沢から少し離れた場所に落ちて粉々に飛び散った。
 ──植木鉢だ。
「くそったれ!」
 神山は落ちてきたそれを確認すると、身体を起こして、食堂に飛び込んだ。中を通って、屋上の階段を上る。
 重い鉄の扉を開けて屋上に出たが、そこには誰もいなかった。通り抜ける強い風に目を細め、あたりを見回す。しかし、人の気配すらもしない。
 しかし──
 あのとき、確かに屋上に黒い影があった。誰かいたのは本当だ。
 しかも植木鉢が落ちてきたのだ。この屋上はいつもなら閉鎖しているはず、こんなところに植木鉢などあるはずがない。
 何故、いつもなら閉鎖している屋上の扉が開いていたのか。それは明らかに誰かが真沢を狙って植木鉢を落としたことを指し示している。
 神山は「くそ」と短く罵って、屋上を降りた。
 食堂前では、人だかりが出来ていた。その輪の中で、真沢が座り込んだまま、壊れた植木鉢を見つめている。その視線は怯えるような、恐怖を感じている目だ。
「真沢……」
 声をかけると、真沢は弾かれたように視線をあげ──神山の姿を認めると、再び目を伏せた。ゆるゆると頭を振ってうなだれる。
「……すみません」
 すみません?
 普通なら、何故植木鉢が、などというはずだ。それなのに詫びるということは──真沢は自分が狙われていることを分かっていたのだ。
 なら、どうしてのこのこ一人で出歩いたのか。
 神山は腹立たしい気分になって、思わず眉根をきつく寄せた。
「どうして、のこのこ一人で出歩いた?」
「え……?」
 真沢の黒い瞳が大きく見開かれた。神山が脅迫文のことを知るはずがない、何を言っているのか理解できない──という驚きの表情だったのだろうが、神山はそこまで気が回らず、単純に真沢の無頓着さ故の驚きだと受け取った。
 神山は野次馬の前ということにも係わらず、真沢の前に膝をつくと腫れていない方の頬を軽く張った。
 パン、と小気味良い音がした。
「もっと自分を大切にしろ!」
 植木鉢だ。植木鉢が落ちてきたのだ。そんなのが頭に当たっていたら──怪我だけではすまない。
 それが分かっているのか。真沢は、分かっているのか。
 改めて考えると、腹が立った。身の危険が迫っているというのに、一人で出歩くその神経が分からなかった。近頃の若者は、命を粗末にしすぎている。
「おまえ、……っ」
 神山は荒く息を吐いた。ここでは野次馬の目がある。
「来い!」
 真沢の腕を取って立ち上がる。真沢は引っ張られるまま、立ち上がった。
 珍しく、神山は強烈なまでに憤っていた。


 ※ ※ ※


「……これは、何だ?」
 神山は先ほどの脅迫文をデスクの上に置いた。
 真沢が息を飲んだ。
 やはり、知っていたのだ。自分が誰かに狙われているということを。
「……どうして隠してたんだ? その頬を殴ったのも、さっき階段から突き落とされたのも、植木鉢も。全部この脅迫文が関係しているのか?」
「──」
 真沢はデスクに広げられた脅迫文を手にとり、何かを言おうと口を開いた。しかしやはり結局、何も言わず文書を折りたたんだ。その脅迫文を、白衣のポケットにしまいこむ。
 何も──言いたくないということなのか。
 神山は知らず拳を握り締めた。
 何も話したくないのだ。──自分には。
「真沢……! どうして話してくれない!? 俺は、……俺みたいな奴は信用できないか!?」
「……先生」
 真沢は悲しそうに顔を歪めた。眼鏡越しの視線がひどく痛がっていた。けれども、その理由も、原因も、神山には分からない。見当もつかない。真沢は最後のところで、いつも神山を拒絶する。
「その殴られたあとも、電話の主も。……心配なんだ。俺は、何もできないが、やっぱり心配なんだ……!」
「──」
 真沢は自分の白衣の裾を、そっとつかんだ。何かに耐えているようだった。眼鏡越しの視線は、もう床しか見ない。
「俺は何もできない。人を理解することも、苦手だ。……はっきり言われないと、ちゃんと理解できないバカだ。だが、……おまえが心配なんだ……」
 真沢の顔がずっとうつむいたままということに、神山は次第に勢いをなくして呟くような声量になってしまった。
 拒絶されている。……分かっているが、引き止めたくてあがいていた。
 ──心配だ。
 本当にそれだけが心を占めていた。守れるものならば、守ってやりたいとさえ自分勝手に思った。
「先生」
 真沢がぽつりと語尾を上げて、呟いた。
 つかんだ白衣の裾を離して、ポケットに手を突っ込む。視線を上げて、レンズ越しに神山を真っ直ぐ見据える。冷たい、凍るような瞳だった。
「あなたに心配されるのは、迷惑です。私はあなたが考えているような、弱い男ではありません。ご自分の理想を勝手に私に押し付けないでください」
「……!」
 ずきり──と手足の先が痛んだ。遅れてにじみ出てくる、冷たい何か。痛い。……痛かった。
 何も言い返せない神山の前を、真沢は悠々とした足取りで横切り、デスクについた。何事もなかったかのように仕事を始めようというのか、書類の束を揃える音がした。
 神山は小さなため息をついて、唇を噛んだ。
 しかし、こみ上げる何かを制しきれなくて、壁を拳で殴りつけた。鈍い痛みと、派手な音。だが真沢は、やはり何も言わなかった。
「……すまん」
 神山は小さく詫びると、保健室を逃げ出した。


 ※ ※ ※


 それからの神山は人生上で一番荒れた。
 元々、規則正しい生活を送る習慣がついていない神山が、自堕落な生活に身を持ち崩すのは簡単なことだった。暴飲暴食に走ることはなかったが、一日二箱だったタバコは三、四箱になり、その分、食事の数が減った。食べない日もあった。
 けれども仕事を休まなかったのは、真沢の前という意地と、年長者の威厳を守るという二つのつまらない理由があったからだった。欠勤しないとはいえ、ひどい生活に陥っている神山の様子がささくれだたないわけがない。三日、四日とそんな日々が続くと、さすがの同僚達も、生徒達も、神山の異変に気がついた。
 そんな中、遅れて神山の異変に気がついた同僚たちとは違って、弓岡は神山の異変にいち早く気がついた。しかも、神山の異変がどうやら真沢と関係あるらしいことも感づいてしまっていた。
 しかし──
 もはや神山と真沢の関係は修復不可能と思われるところまで悪化していてしまっていた。 いくら弓岡が神山の異変にいち早く気がつき、原因を知ったとしても、もう二人の関係は元通りに戻せそうになかった。
 そういうわけで──
 弓岡和彦は困り果てていた。
 神山と親しかった弓岡は、否が応にも真沢と神山の間に立たされるわけで、早い話、嫁と姑の間に立たされる夫状態に陥っていた。
 物を投げあったり、罵詈雑言飛び交う劣悪な関係ならまだましだったが、困ったことに二人の間は沈黙が冷たい荒涼とした関係になってしまっていた。何の動きもない冷え切った関係に挟まれてしまっては、どこをどう転んでも取っ掛かりがないので仲を取り持つことすらできない。
 ──真沢と神山の関係は最悪だった。どう第三者があがいても修復できないぐらいに。
 弓岡は、深いため息をついた。
 屋上のベンチに腰を下ろして、青空を眺める。最近は、保健室に行くことも少なくなった。さすがの弓岡も、あの冷たい戦場に向かいたいとは思わなかった。
 くわえタバコから、薄い煙の渦。
 屋上は禁煙だったが、こっそり破って一服する。そうでもしなければやってられなかった。
 薄雲のかかった青空に、白い彗星。飛行機雲。のどかな一枚の青空……なのにこんなに憂鬱なのはどうしてだろう。
 ため息。
 一体全体、何がどうなったのか。弓岡の見立てでは、あの二人はお似合いだったはずだ。一時期、仲も良かった。しかし、いきなりこんな険悪な関係に陥るとは……何かあったのは確かだが、見当がつかない。
 まさか、神山が真沢を強引に押し倒した、なんてことはないだろうし(大体、神山にそんな度胸はない)、反対に真沢が襲い受け、なんてこともありえない(真沢はそんなことができる人間ではない)。
 ……つまりあの二人はどこまでも晩生な二人だ。
 神山の純情晩生ぶりは嫌と言うほど知っている。真沢は付き合いが浅いが、そういう方面に淡白なのは見たとおりだ。
「あー……こいつは困ったなぁ〜……」
 つい、声に出してぼやいてしまう。
 今の神山を見ていると痛くて痛くて、とても笑えない。真沢も真沢で何か抱えていることは一目瞭然だった。しかし真沢はこの何日間、保健室から出ようとしないし、神山も生来の真面目さで保健室に常駐しようとするから、日にち薬も適用できない。
 フィルターを噛んで、紫煙で雲を描いてみる。考えごとがあるとタバコのフィルターを噛んでしまうのは昔からの癖だった。
「……まさかひょっとして」
 弓岡はタバコを挟み持って口から離した。
 前かがみになって、膝に肘をつける。
 ひょっとして──
 と、そのとき、名前を呼ばれた。
「弓岡先生」
 顔をあげると、そこに立っていたのは恐怖の御曹司だった。
 名前は──藤木巽。
 彼は大人びた顔で口の端を持ち上げた。大人でもある種類の人間しかしない笑い方だ。自信と余裕、そして権力のある人間が浮かべる笑み。
「確か屋上は禁煙だったはずですけど?」
「うーん……?」
 弓岡は肩をすくめて、わざとらしく腕時計を見た。
 時間は、ちょうど五時間目の途中を指している。
「確か今は五時間目の途中のはずですけど?」
 弓岡の切り返しに、藤木は眉を少しあげて軽くいなした。
「先生に話があるんです」
 弓岡はタバコをくわえながら、「ふうん」と気のない返事を返した。視線を遠く、空へ向ける。だが、注意だけは藤木に用事深く向けておく。
「進路相談なら、お父様とした方がいいと思うよ?」
「いいえ。別に進路には迷ってませんから」
「じゃ、恋愛相談?」
 軽く笑って視線を戻す。しっかり視線だけは笑わずに。しかし、藤木はひるまなかった。傲岸不遜に、弓岡を見返す。
「恋愛相談なら、乗ってくださるんですか?」
「そうねぇ。虎の威を買ってる子狐ちゃんが大人にちょっかいだすようなおバカな恋愛には助言しかねるなぁ」
 藤木の目がすっと細くなった。
 ──当たりか。
 まさかと確証はもてなかったが、やはり藤木は神山に手を出している。方法はわからないが、まあ、やったことは想像に難くない。しかし、こんなところでくすぶっているということは、神山に拒否されたか、拒絶されたか──可愛らしい言葉で言えば、ふられたのだろう。
 だが神山が今もこの学園で、保健医として働き続けているということは、少なくともこの坊ちゃんは自分の親父の権力を使って神山に報復することはしなかったのだろう。そこまでどら息子ではないらしい。まあ、そんなことやっていたらこいつは一も二もなくアホだと思うが。
 藤木は諦めたように、笑った。
「そうですか。ですが僕は、想っていながら何の行動も取れない臆病な恋愛の方がバカだと思っています」
「いいじゃないの、美談だよ」
 すかさず言い返してやると、さしもの藤木もひるんだらしい。生きている年数はどう跳ねたってこちらが上だ。大人を出し抜くには十年早い。
「で? 話って何? 貧乏暇なし、先生、忙しいんだよね」
 くわえたタバコをもみ消して、携帯用の灰皿に突っ込む。新しいタバコを取り出して、ジッポで火をつけた。新しい煙を一服。
 藤木はしばらくこちらを見つめていたが、やにわにポケットから黒いフィルムケースを出した。
「先生。このフィルムには、神山先生が映っています。……勿論、普通の写真ではありません」
「……ふうん」
 神山に手を出したときのフィルムだろう。無論、やってるのは神山と藤木だろうが、藤木の姿は映っていないに違いない。奴はアホではなかったが、計算高いバカだったようだ。
 しかし、それを持ち出して自分に一体何をさせようというのか。
「このフィルムの写真、ばらまかれれば神山先生は一瞬にして社会的地位を失うでしょうね。良く撮れていましたから。先生は神山先生と大変お親しいようですから、そんなことされるのは嫌でしょう?」
「まあ、そうかなぁ」
 あくまで気のない返事に、藤木は鼻白んだ。必死に何か言い募ろうとする彼を遮って、弓岡は話を促す。
「ま、そりゃあ大変だろうねぇ。今日日、マスコミは教師の不祥事に鵜の目鷹の目。教師叩きしてなんぼだからねぇ。で、だから話って何? なにか俺にしてほしいことがあるんでしょ」
 藤木は顔をしかめた。つかみ所のない相手にやりにくさを感じているのだろう。弓岡自身、もし誰かと交渉することがあるのなら、自分という存在だけは避けたいと思う。
 藤木はポケットにフィルムをしまい、小さく息を吐いた。気を取り直して、話を再開する。
「そこまで分かってくださるのなら、話は早いです。先生には真沢先生を襲ってほしいんです」
「襲う?」
 思わず聞き返した。その反応にようやく藤木は自分のペースを取り戻したらしく、余裕のこもった口調で続けた。
「簡単に言えば、強姦ですね」
「何、それ、俺に犯罪者になれってこと?」
「写真、ばらまかれたいんですか? 神山先生の相手が弓岡先生だってネットで流してもいいんですよ?」
 ──ふうん、そうくるか。真沢を犯せ。……私怨? まあ結果、神山は真沢と仲がよくなったわけだが。今は劣悪だ。それを知らないのなら、やっぱり真沢に神山を取られたと思うのが妥当だろう。
 弓岡はしばらく考え、ふう、とタバコの煙を吐いた。
 真沢を強姦。……まあ、構図的には、無理はない…が。
「あんまり食指が動かないなぁ。好みじゃないんだよね。神主さんじゃないし。……君がやれば?」
「神山先生が困ったことになりますけど?」
 連鎖反応のようにすぐに返ってきた。……しかしどうして、自分に話を持ちかけたのか、いまいちつかめない。やらせるのなら、取り巻きにやらせればいい。藤木には強力な取り巻きが二人ほどついているのを知っている。茶色の髪と、黒の髪の二人だ。そのうちの茶色の髪の方は、弓岡も担任をしたことがある。確か名前は──倉だったか。
「どうして俺なわけ? ほら、君の取り巻き……倉とかにやらせれば? 喜んでするんじゃないの」
 藤木は眉根を寄せた。「倉?」と聞き返してくる。しかしやがて、思い出したのか、「ああ」と眦を開いた。
「あの茶色の方ですか? あの二人は所詮、藤木の家の方に媚びてるだけですから。僕自身に従っているわけではありません。神山先生がクビになろうと、社会的に踏み潰されようと、あの二人には全然興味がないことですよ。神山先生を守るために、真沢先生を襲うなんてリスクの高い真似、しません。返ってくるものも少ないですし」
 弓岡は長いため息をついた。てっきりバカ御曹司だと思っていたが、案外本当のところはあっさりしていて自分の立場が良く分かっているらしい。媚びてくる人間の大半は家の威光ためであって、自分自身のなすところではないと理解しているのだ。それが分かった上で家の威光を利用しているのなら、大したタマだろう。
「弓岡先生は神山先生を想っている。想っているのなら、僕の言うことはできるはずです。……そういうふうに僕に言った人がいたものですから。真沢先生を押し倒して、やることをやればいいだけです。引き受けてくれるでしょう?」
「簡単に言ってくれるねぇ。好みじゃないと立つもんも立たないと思うんだけど?」
「引き受けるんですか、引き受けないんですか」
 苛ついている。焦っているのか。……それとも?
 弓岡はわざとたっぷり時間をとって、ため息とともにうなずいた。
「そうねぇ。……ま、やってもいいか。引き受けるよ」
 パン、と膝を打って立ち上がる。首の関節を鳴らしながら、藤木の横を通り過ぎる──藤木が付け加えた。
「今日の放課後、三階の空き教室でお願いします」
「また急な。……まあ、いいけど」
 ──場所まで指定してくるか。カメラとかビデオのセットの関係だろうか。罠にはまった気もしないでもないが。
「真沢先生の呼び出しには、これを使ってください」
 藤木はそうやって上着の内ポケットから、二つ折りにした白い紙を取り出した。弓岡はそれを受け取り、中を開いてみた。
 文面は簡潔で、真沢に三階の空き教室に来るように、と書いている。差出人の名前は、藤木。
 弓岡は目を細めて藤木を見つめた。名前を出してしまってもいいのだろうか。
「それを使えば、必ず真沢先生は来ます」
「……ふうん?」
 藤木の名を使えば、真沢が来る?
 弓岡はわずかに口を開きかけたが、タバコをねじ込むことでその仕草を押し隠した。







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