※ ※ ※


 神山淳司は気分が最悪だった。
 食欲はなく、今日の朝から何も食べていない。口にしたものといえば、水道の蛇口から直接飲んだ粗悪な味の水と、苦いばかりのタバコだ。
 そんな生活がここ二、三日続いていた。
 真沢のことが響いている──それは良く分かっていた。神山もバカではない。真沢の拒絶にあって、気分はどん底を呈しているのはいくら心の機微に疎い神山でも分かっていた。
 気分は最悪だったが、それでも真沢を気にかけないわけにはいかなかった。またいつ狙われるか分かったものじゃないのだ。真沢が学園を去らない限り、あの殺意を抱いた嫌がらせは続くに違いない。何の解決もしていないのだから。
 真沢にとっては非常に不本意だろうが、神山は真沢が保健室にいるかぎり、できるだけ保健室に常駐することにした。勿論、あれから真沢との間に会話はない。神山も話し掛けようとしなかったが、真沢も真沢で神山に話し掛けようとする素振りはなかった。
 時折保健室に遊びに来る弓岡も、さすがにこの神山と真沢の間の冷たい空気に恐れをなして、最近はめっきり保健室に寄り付かなくなった。
 苦いため息。
 うなだれて、職員室から保健室の道のりを行く。放課後という時間帯だからか、校内はどこか静まり返っていた。下校時刻はとっくに過ぎている。生徒はもう校内にいないはずだ。
 神山が職員室に向かったのは生徒の親からの電話に出るためだったが、仕事とはいえ成り行き上、保健室を出ることになった途端、神山の気分は最悪のところまで沈んだ。
 真沢が近くにいないせいか、張りつめていた気持ちが緩んだのだろう。余計なことを考えないようにと張りつめていた気持ちが、つい余計なこと──真沢のことを考え始めている。
 ああでもない、こうでもない──考えつく脳内の問題は類題ばかりで、その答えもこれといった説を上げられず、堂堂巡りだ。1+1=2、という明確な答えがある問題なら、こんなに塞ぎはしない。
 ぐるぐる袋小路ばかりの迷路をさまよっているような感覚に陥っている。
 病気だ。しかも、保健医が。……ああ、笑えない。
 眼鏡の縁に触れ、そっと外す。途端にぼやける疲れきった視界が、神山のみじめな気分に拍車をかけた。いっそ、体面もなく泣いてわめき散らせれば、どんなにすっきりするだろう。
 眼鏡といえば……真沢は、まだ眼鏡をかけていた。コンタクトはやめてしまったのか、あの嫌がった赤フレームの眼鏡をかけつづけている。しかし、途端に遠くなってしまったあの同僚は、もう何を考えているのか神山には分からなかった。
 ──同僚。
 神山は自嘲気味に笑った。
 同僚なのか。……そんなはずはないじゃないか。こんなどん底にいるのに。分かってる。分かってるよ……
 神山は思わず足を止めた。分かってるよ。……分かってる。それだけが胸中で続いた。
 弓岡の言ったことが本当になってしまった。
 神山淳司は、真沢秋之に惚れてしまった。ありえない。……笑えないほど、ありえない……。
 けれども。
 やっぱり、神山淳司は真沢秋之に惚れている。
 そんなこと、今さら分かったって仕方ないというのに。
 憂鬱な気分とともに、眼鏡をかけなおす。
 神山は再び歩き出し、足を引きずるようにして曲がり角を曲がった。保健室に帰るのには、この曲がり角を曲がったところにある階段を降りなければならない。しかし、そこに見えた人影にはっとして立ち止まる。
 真沢だった。
 白い紙のようなものを握り締め、足早に階段を上っていく。ここは二階だから、三階に行くつもりなのだろう。
 神山は去っていった真沢の後を、首を伸ばして見た。しかし、真沢の姿は見えない。よっぽど急いでいるのか、こちらにも気がついていないようだった。
 三階に、一体何の用事があるのだろう?
 保健医である真沢は、そうそう三階に用事などないはずだ。二階の職員室ならまだしも。
 神山は険しい顔になった。脳裏にあの脅迫文が浮かぶ。まさか、あの関係で……?
 そうならば──真沢が危ないのではないか?
 そう考えが行き着いた途端、神山は真沢が消えていった階段を駆け上がった。
 三階の廊下に飛び出すと、遅れてバタンと扉が閉まる音が響いた。扉が閉まる音。──この階で開閉式の扉がある教室は──
「LLとコンピュータ室、それから特殊空き教室か……!」
 杞憂だったらそれでいい。また迷惑だと真沢に冷たくあしらわれればそれでいいのだから。だが、もし万が一。
 それを考えると、神山はいても立ってもいられなかった。白衣を翻し、ここから一番近くの空き教室へ向かう。LL教室は少し遠い。扉を閉める音がここまで聞こえてくるとは思えなかった。
 弾んだ息遣いで、空き教室に辿り着く。ドアノブに手を伸ばそうとしたとき、白衣のポケットの中で携帯電話が鳴り響いた。
 こんなときに電話にかかずらっていられない──と無視しようとしたが、うるさい着信音に舌打ちして電話を取り出す。フロント画面にメール一件。ボタンを押せば、メール内容が表示された。
「……!」
 メールの文面は短く、真沢が三階の空き教室(今、目の前にある教室だ)で、大変なことになっているというような内容だった。勿論、非通知で差出人は不明だったが、悪戯でないことは明らかだった。現に、真沢は三階に向かっていたのだから。
 神山は白衣のポケットに電話を押し込むと、空き教室のドアノブに手をかけた。回してみるが、びくともしない。鍵が掛けられているようだ。
「真沢! ……いるのか!?」
 扉を叩いて、呼びかけてみる。しかし、返事は返ってこない。
「真沢!」
 もう一度呼びかける──返事の代わりに、中から何かが倒れる音がした。続いてもみ合う音、真沢の声。
「な、何をなさるんですか! や、……う、んん! んっ!」
 真沢の──
 カッと頭に血が上った。鍵のかかっているドアノブから手を離し、渾身の力を込めて蹴る。バキ、という音がしてドアノブごと、壊れて落ちた。もう一度ドアを蹴ると、扉は蝶番ごと外れた。
「真沢……!」
 開かれた空き教室の中を見て、神山は言葉を失った。
 押し倒され、無理やり抱きすくめられているのは──
 無理やり抱きすくめているのは──
 真沢と、……弓岡。
 頭の中が真っ白になった。何がなんだか、分からない。鼻っ柱を殴られたような衝撃に目の前が眩んだ。
 神山は無意識に真沢の上にのしかかる弓岡の襟首をつかんで、引き上げた。弓岡がその際に何か言ったような気がしたが、聞き分けられなかった。身体の奥底の方から、なんと形容したらいいのか分からない吐き気のするものがこみあげてくる。その得体の知れない吐き気を、神山はぶつけるがごとく、弓岡の横っ面を思いっきり殴りつけた。
 バキ、という生々しい音がした。
 弓岡は派手に吹き飛んで、壁に背中をぶつけて崩れ落ちた。
 殴りつけた拳が痛かった。それでも、その痛みに立ち止まることが出来なかった。
「弓岡ぁ……!」
 崩れ落ちた友人の襟首をつかんで、締め上げる。友人はヘラっと笑った。殴られた拍子に切れたらしい唇から、血が滲んでいた。
「何、邪魔しないでよね」
 全く悪びれずしゃあしゃあと弓岡は言った。反省や、見られてしまった、という色は全くない。そればかりか、ヘラヘラと笑って自分のしたことの重大さを分かっていないかのような態度だ。
 神山は、言葉が思うように続かなかった。
「っ! おまえ、……おまえは! そういう……何をしてたんだ!?」
「見りゃあ分かるでしょ。アハハハ……神山ちゃんも参加したかったらどうぞ?」
 同僚の言葉が終わらないうちに、神山は弓岡を力いっぱい殴りつけていた。弓岡は抵抗せず、もんどりうって床に倒れた。
 拳に、血がついた。
「……弓岡……、おまえはそんな男だったのか! そんな……信じていたんだぞ……!」
「へえ、何を信じるのさ? ホモな男を信じたっていいことないよ?」
「おまえ……!」
 もう一度弓岡を殴りつけようとした神山を、真沢の声が止めた。
「やめてください! い、いいんです、私は。もう平気です、だから! 別に私は平気です!」
「真沢……」
 何故、庇うようなことを言うのだろう。今、この弓岡は、無理やり──
 いくら弓岡でも、許されることではないはずだ。
「弓岡先生は、悪くありません! 悪いのは私です!」
 真沢は眉を寄せて、激しく頭を振って訴えた。神山は混乱した。どうして弓岡を庇う? どうして。
 沸騰していた怒りが急激に冷えていった。庇うのは──まさか、押し倒されたのは、合意の上だったから?
「……まさか、弓岡と」
 だとしたら、神山は余計なことをした。無意味なことをした。……また真沢の迷惑になってしまった。
「あ──」
 神山は口元を押さえた。自分のしたことは……?
「す、すまん……」
 あとずさる。後悔と、そして何か痛いものがあった。真沢は、弓岡と……。
 真沢はハッとして顔をあげた。慌てたように頭を振る。
「ち、違います……! 違います! 違うんです!!」
「い、いや、……その、……すまん……」
「ち、違っ……!」
 真沢はよろめきながら立ち上がった。感情にもつれてうまく動かない言葉に急かされるように、ただもどかしそうにこちらに近づこうとする。だが、言葉同様、足もまたもつれてうまく動かなかった。
 よろけて、前かがみにバランスを崩した真沢を、神山は慌てて手を伸ばして支えた。
「お、おい……」
「ち、違う……違うんです。本当に、本当に……」
 真沢がそっと白衣の襟をつかんだ。力をいれて、握り締める。神山の広い胸板に頬をつけてうつむく。
「ま、真沢」
 細い肩が震えていた。抱きつくというよりかは、しがみつくような仕草の真沢に神山は急にどうしたらいいのか分からなくなった。真沢は、弓岡が、……なのではないのか。これは一体どういうことだろう?
 胸元に感じる真沢の確かな熱を自覚した途端、頬に血が昇るのを感じた。
「あ……その、ま、真沢」
 ぎこちなく、腕を持ち上げる。ゆっくりとためらいながら、真沢の濡れたような色の黒髪に手のひらを添える。しっとりとした髪の感触。どきりとした。自分の感情を自覚した今では、更に何をどうしたらいいのか全く分からなかった。
 いいから落ち着けと神山は自分に言い聞かせて、静かに真沢の髪をなでてやる。漂った石鹸の香りが、頬を赤くさせる。
「も、もう大丈夫だ。その、安心しろ?」
 後ろで、パタン、と扉が閉まる音がした。見回すと、弓岡の姿がなかった。不可解だが、退散したらしい。弓岡と真沢は、そういう仲ではないのか……?
 真沢は何も言わず、息を詰めて神山の胸に頬を寄せる。うつむいた顔は、どんな表情を浮かべているのか分からない。けれどもか細い吐息は、何か確かなものに触れたそうだった。
 真沢、と神山は息だけで呟き、しがみついてくる彼の背中を抱き寄せた。頬の熱さは消えなかったが、これ以上手を出すのは不敬なような気がした。







戻る サイト 次へ