8


 足先で散らばったカッターシャツを押しやり、読みかけの釣りの専門書を蹴飛ばす。蹴飛ばした拍子に自分も忘れかけていたポルノ雑誌の存在を見つけ、慌てて掘り出して台所に持っていく。しかし置き場がなくて(ゴミ箱は一杯だった)、仕方なしに冷蔵庫へぶち込んでおく。半裸で映っている女優が風邪引かなければいいが。
 安堵の深いため息──が、急に喉に詰まった。
 居間をきょろきょろと見回しているのは、真沢だ。神山は大いに慌てた。
「う、あ、その、待て」
 まだ片付け終わっていない。慌てて居間へ向かおうとして、積み上げていた洗濯物を蹴飛ばしてしまった。おまけに足の先を柱にぶつけて、思わずうずくまる。
「っああ……!!」
 これはたまらない。
「……大丈夫ですか?」
 静かな問いかけに、神山は声もなくうなずいた。情けなくて涙が出そうだ。
 あの後、神山は真沢を家に招いた。あんなに心細げにしている真沢をそのまま一人で帰らせることはどうしてもできなかった。別に何をしようという下心があるわけではなかったが、緊張して家に誘った神山に、真沢はあっさり了承し──日頃の自分の自堕落な生活を後悔する羽目になった。
 荒れ狂う部屋。他人に見せることを全く想定していない神山の部屋は、それはもう大変な状態だった。
 好きな女を期せずして家に招くことになった高校生が、慌てて部屋の掃除をするのと同じように、神山もまた慌てた。
 とりあえず真沢には外で待ってもらって、部屋の見てくれだけでも改善しようと──したのだが。
「すみません、あんまり時間がかかっていたものですから……つい勝手に入ってしまったんですけど……」
 足を抱えてうずくまる神山に真沢は勝手に部屋に入った非礼を詫びた。
 しかし、当の神山は足の痛みにそれどころではなかった。タンスの角に足をぶつけたあの痛み、人間なら一度は絶対に体験しているはずだ。
「……先生、本当に大丈夫ですか?」
「あ、ああ……大丈夫……」
 よろよろと立ち上がると、真沢が心配そうにこちらを見つめていた。その視線が決まり悪くて、神山はやや早口になる。
「その、まあ、狭いところだが、座っててくれ。食い物出すから」
「え、ええ……」
 ぷい、と背を向けて台所に引っ込み、神山は冷蔵庫を開けた。突っ込まれたポルノ雑誌を適当に端に寄せながら、酒とつまみを適当に取り出す。
 居間に戻ると、真沢はやはりどこかそわそわとあたりを見回していた。あまりに汚い部屋の様子に萎縮してしまっているのだろうか。それとも反対に珍しい気持ちなのだろうか。どちらにしても、あまり神山の好印象につながりそうもない。
 胸中、苦いため息をついた。こういうことなら、日頃から掃除をしておけば良かった……。後悔、先に立たず。
「……ん、ビール」
「あ、ありがとうございます……」
 缶ビールを差し出すと、真沢はおずおずと受け取った。受け取りながらも、あたりに何か恐ろしいものでもいるように、きょろきょろと視線をめぐらす。
 神山はやけくそな気分で缶ビールのプルタブを上げ、口をつけた。ぐっと飲み干して至上の吐息。
「すまんな、汚い部屋で。男の一人暮らしなんだ、許してくれ」
「あ……、ああ、いえ……結婚…、されているのかと思っていましたから」
「結婚? ……ハハ、結婚なんかしてたら、もうちょっと……何と言うか、しっかりしてる人間になってる」
「え、あ、いえ」
 赤フレームの眼鏡を指で押し上げ、真沢は少し反応に困るような顔をした。こめかみに指をあてて、小首を傾げる。視線は、微妙に他所を向いている。
「先生…らしくて、この部屋……嫌いではありません。先生の匂いがして」
 ……あやうく、飲み込んだビールを吐き出しそうになった。
 嫌いではない……? 嫌いでは……。嫌いでは……。
 他所を向いていた真沢の視線がちらりとこちらを見た。
「その──先生?」
「な、何でもない、何でもないぞ! ちょっと酔いが回っただけだ! 以上!」
 慌ててビールをあおり、頭を振る。こんなところでこのタイミングで、顔なんか赤らめたら、気持ち悪がられてしまう。ただでさえ、真沢には情けないオヤジだと思われているのに。
 真沢は眼鏡の位置を直しながら──ぎこちなく視線を再び下に落とした。それは、傷ついたような仕草に見えた。
「あ、す、すまん……」
 不審な態度が真沢を傷つけてしまったのだろうか。こっちは真沢を傷つける気など、毛筋ほどもないが──何がどう作用して、どのように相手に伝わるか分からないのが人間関係の怖いところだ。真沢が到底思いもよらない受け取り方をしても不思議はない。
「──先生」
 真沢は視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。開けていない缶ビールを両手で包み持って、悲しそうな顔をする。
「先生、私のこと許してくださるのですか。あんなにひどいことを言ったのに……私だったら、絶対に許しません。絶対に」
「──真沢」
 許す許さないも何も、あの日拒否されたのは、自分が踏み込みすぎたせいで──真沢の拒否は自分を守るためだったのだ。神山はそれが分かっている以上、真沢を責めることはできなかった。
「先生。……しかし、先生は私にこうやって良くして下さるでしょう。私は何もかも、未熟です。……おそらく、先生から見ればきっと私は生意気で可愛くないでしょう。辛いことを全部体験してきたみたいな、悟りきった格好をつけている、生意気な──」
 真沢はため息を一つついた。尾の長い、疲れているため息だった。
「……先生。私はそんな人間なんですよ。先生が気にかけてくださるに値する人間ではありません」
「気にかけるとかそんな──」
 真沢が虚ろな笑い声を立てた。声を立てて笑うのは、これが初めてだったが、あまりにも自虐的な笑い方だった。
「先生、藤木巽のことを聞いてもそう言えますか?」
「藤木……?」
 神山は眉を上げた。まさか──あのことを言っているのだろうか。嫌な予感がした。あのことはもう解決したはずだ。藤木は何の動きも見せていないが、神山がすべきことはすべてした。そう思っている。
「……先生が藤木に何をされたのかは、知っています」
「何だって……」
 かすれた声で聞き返す。知っている。……何を? やはり、あのことを? あの──間違いを?
 唾を飲み込み、神山はビールの缶を強く握った。アルミの柔らかい側面が、かすかに歪んだ。
「先生。私……私は」
 真沢は深くこうべを垂れ、床に手をついた。土下座するように、震えながら告白する。痛い懺悔だった。薄汚れた部屋でうなだれ祈るような──許しを乞う懺悔。神山は、ただ愚鈍にそれを見ていた。
「私は、先生が藤木に何をされるのか分かっていて──あの時、保健室を出ました……! 藤木が先生に何をしようとしているのか分かっていて、協力しました……!」
 痛い言葉は、うつむきうなだれた真沢から放たれ、汚れた部屋に舞い散った。
 流れて揺れる真沢の黒い髪。顔は、見えない。
 神山はただそれを見つめるだけだった。つきつけられる懺悔に、許しを与えることもできない──真沢の言葉が、理解できないでいた。
「先生を藤木のもとへ先導すること──それが私の初めからの目的でした。だから」
「……どういう……意味だ……?」
 確かに、藤木と初めて身体を繋がされたとき、真沢はその直前保健室を出て行った。あれは、これから始まることを知っていたからだったのか。
 ビール缶の側面がひどく歪んだ。
 真沢の肩が大きく震える。
「ゆ、許してください。……許してください。私はこんな人間なんです。先生を初めから裏切っていました。私は先生によくしてもらえる人間ではありません……!」
「どうして藤木に協力したんだ……」
「……そ、それは」
 口ごもり、沈黙する。神山はそっと──気持ちとは裏腹に丁寧な手つきで歪んだ缶ビールを床に置いた。
「──藤木に何か弱味でも握られていたのか?」
 あのときの藤木の姿が目に浮かぶ。優位に立つため、手段を選ばない藤木の姿。言葉。藤木は、自分だけでなく、真沢をも踏みつけ、土台にしていたのか。
「……採用試験に失敗したと分かったその年──藤木が話を持ちかけてきたんです。ある条件と引き換えに、蘇洸で保健医として使ってやる、と。私は、……私はその言葉に乗って……」
 ぽつんと──乾いた告白。真沢は床に手をつきうなだれたままでこちらを見なかった。汚れた床に向かって、格子越しの神山に罪を告白するように血を吐く。
「せ、先生は嗤うでしょうね。そ、そんな……そんなことで、藤木の言いなりになっていたなんて。そんな、つまらない……そんな藤木の話に乗るなんてことしないで、試験にまた来年挑戦すればいいのにと……。けれど、私は……私は……つい甘えてしまった……」
 藤木は言葉たくみに、真沢を惑わせたに違いない。保健医になりたいという夢を持っていた真沢を、意のままに操ることは簡単だったはずだ。逆らえば辞めさせる、そう脅せばいいのだから。
 もし、真沢の立場に神山が置かれたら、きっと藤木の話に乗っていたに違いない。条件さえ飲めば、夢がかなうのだ。真沢も保健教諭になるために勉強してきただろう。夢をかなえるために、努力してきたはずだ。その夢が試験の失敗で破れたとき、目の前に藤木のもちかける甘い話があれば、一も二もなく飛びつくに決まっている。
 真沢の言葉は、震えて滲んでいた。身を切られるような悲しみの気配に、神山は眉を寄せて目を閉じた。悲しむな、そう言いたかったが口を開けば取り返しのつかないことを言いそうで何も言うことが出来なかった。取り返しのつかないこと──例えば、真沢に愛を伝える言葉だとか。
「けれど、良かったと思っています……」
 真沢は自分の肩を抱きながら、ようやく身体を起こした。うつむいたままではあったが、安心したような笑みを口元に浮かべる。
「先生が、藤木に屈することがなくて……。本当に、良かった。……先生が、私のように藤木に屈することがなくて」
「それは……」
 違う。屈しなかったわけではない。一度ばかりか、二度も自分は藤木に屈したのだ。藤木に繋がれ、受け入れた。それが屈していないとは、誰が言えるだろう。
 ──ふと、神山は怪訝に思った。
 じゃあ、どうして真沢はあの脅迫文──学園を辞めろという脅迫文を送りつけられたのだろう? 命を狙われるような嫌がらせまで受けているのだ。一体誰に? 藤木にそんなことをされる理由はないはずだ。真沢は藤木に協力しているのだから。
「じゃあ、何故、あの脅迫文は──」
「──」
 真沢の伏せた目が、一層震えた。動揺を隠し切れず、顔を上げてしまう。真沢の顔色は、紙のように白かった。これ以上、問い掛ける強い言葉をぶつければ、壊れてしまうような──頼りなげな風情。動揺して震わせたまつげが、神山を上目遣いにうかがった。
「藤木は、先生と私が……だと思っているんだと思います……」
「……だと思う?」
 ぼそぼそと呟くような言い方に肝心な部分が聞こえず、やや大きめな声で聞き返すと、真沢は言葉にためらって視線をさまよわせた。
「……その、……好きあっていると思っているのではないかと……思います。藤木にそんなことを言われて、その……殴られましたから。藤木はまだ先生のことを諦めていません。私がきっと憎いんだと思います。だからおそらく、あの脅迫文も、弓岡先生も。弓岡先生はたぶん、私と同じように藤木に弱味を握られているのだと思います」
 あの顔の痣は、藤木にやられたものだったのか。
 神山は今はもうすっかりあとも消えた真沢の頬の痣を思った。無意識に真沢の頬に手が伸びかけて、ぎゅっと膝の上で拳を握る。
「……藤木はそんなふうに思っているのか」
 思わず大きなため息が出た。
 真沢と自分が好きあっている? そんなはずはない。藤木もそんなことぐらい、見てわからないのだろうか。好きなのは一方的にこっちだけであって、真沢がそんなはずはないのだ。
 真沢も心外だと思っているのだろう。やや眉を寄せ、口元を手で覆った。小さな吐息。目を伏せる。
「弓岡先生はきっと──藤木に弱味を握られているはずです……」
 強調しようとしたのか、真沢は同じ事を二度繰り返して言った。
 弓岡が藤木に弱味を握られている──そう、弓岡は、本来、ああいうことをするような人間ではなかったはずだ。それは長年の付き合いからわかっている。真沢と同じように、弓岡もまた、藤木に何か弱味を握られているに違いない。
 苦いものが心の中に広がった。
 あのとき、真沢が押し倒されているのを見て、目の前が真っ白になって──弓岡を罵り、殴った。友人を信じきれていなかったのだ。弓岡がそんなことを望んでするわけがないのに。
 ふ、と真沢が淋しそうに笑った。
「先生? ……安心してください。私と弓岡先生は、そんな関係ではありませんから」
 どきりとした。無意識のうちに、あの空き教室で真沢を抱きしめた感触が両腕に蘇る。あのとき、どうして真沢はあんなにも必死に違うと主張したんだろう──?
 しかし同時に、真沢に違うと言われてほっとしている自分を否定できなかった。
「安心……しましたか」
 真沢が静かに問うた。神山は、「ああ、まあ」と曖昧に答えようとして、その先を真沢に取られた。
「大丈夫です、先生。ここまでお話しした以上、もう私は藤木の言いなりになるつもりはありません。それなりに──決着をつけるつもりです」
「決着をつける……って」
 それは間接的に、真沢が学園を去るということを意味していた。神山は大きく動揺した。真沢が学園を去る──そんなバカな話はない。藤木に利用されるだけされて、学園を去る。泣き寝入りするつもりなのか。
「これ以上、先生にご迷惑をおかけできません。私が学園を去らない限り、藤木はきっと私に嫌がらせをしつづけるでしょう。そうなれば、先生は巻き添えを食うことになる」
「だが、……だが、おまえが辞める必要はないだろう!?」
 不恰好に言いすがる。真沢が学園を去ってしまったら──神山などは、もう一生、真沢と会わなくなる。真沢との接点はどこにもないのだ。同じ職場、ということしか。
 しかし、真沢はぎこちなく神山を見つめ、まっすぐにややはにかむように笑った。







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